6-1 一週間後
6-1 一週間後
人の声が一番の隠れ蓑だと言ったのは誰だったか。静まり返った閉鎖された会議室よりも喜怒哀楽様々な声が飛び交う雑踏の方が密談に適していると。正確に聞き耳を立てられない騒めきの中でぼんやりとそんな記憶が浮かんで消える。焦げ茶色のフローリングとお揃いの壁紙に同じ色で統一された机と椅子。ランプを模した暖色系の照明が僕の顔を染めていて机に影を落としていた。
注文した珈琲は既に届いていた。鈍い光を反射するミルクピッチャーを傾け、マグカップに注ぐ。黒と白が混ざり、柔らかな色となる。シュガーポットから角砂糖を二つ、放り込む。ミルクの前に入れるべきだったか。そんなどうでもいい考えが頭を過ぎっていれば、左斜め前の席から黄色い歓声が上がる。フローリングに似た色の間仕切りで細かに席が区切られているため何が起こったのか、誰が声を上げたのかなんてわからない。冒険者専用ではないが、町に立ち寄った冒険者が簡易な依頼の契約を結ぶのに最適だと、こういった内装をしている喫茶店が交易の町では多い。それ以外の者にとっても半個室、しかし問題があればすぐに店員が駆け付けてこられるこの内装は中々人気だった。僕は最近毎日その一番奥の席を陣取っている。向かいの席に座る者はなく、背もたれを見つめていた。依頼者を待っているのではない。むしろ来ないでほしいと願っている。
柔らかな色の液体に口をつけ、行儀が悪いが小さく音を立てて啜る。甘ったるさと苦さが両立した液体が喉を流れていく。小さくついた溜め息は同じ香りがしているのだろうと考え、もう一つ溜め息をついた。
エレノアとの戦いから一週間が経過していた。
自分の敗北を悟りながら意識を失い、目を覚ませば僕は森の入り口に横たえられていた。最早意味を成さなくなった剣と鎧は当然取り上げられ、更には切り札として取っておいたロートの悪行を記録した魔具もなくなっていた。代わりに僕の荷物は全部横に添えられていて、荷袋の一番上に見慣れない紙が風で飛ばないように刺さっている。
そっと手を伸ばす。ここで気を失う前に感じた痛みや疲労が身体からほぼ消えていることに気づき、眉根を寄せる。こんなことをするのは、勿論彼女だろう。それ以外存在しない。敗者に鞭を打つ、みじめな気持ちにさせる優しさがやはり気に入らなかった。
小さな封筒だ。その下にあの薬局での給料も入ったままだ。あんなことをしでかしてでも、働いた分の報酬は払ってくれるらしい。理不尽な怒りが沸いてくるが今は封筒の中身が先だ。封もしていないそれから更に小さな紙を取り出す。プレゼントに添えるようなメッセージカードに近いそれには走り書きでこう書かれていた。
『動けるようになるまでしばらく身を隠しなさい。ロート達とは連絡を取らないこと。それからテレビや新聞の情報はきちんと仕入れること』
たったそれだけだった。別れも、恨みの言葉もなく下部に薄く黄色の花が印刷されている紙に字が躍っていた。業務連絡、という単語が過ぎり、思わず握り潰しそうになる。
だが結局。
僕は残念なことに彼女の、エレノアの言葉に従った。一応言い訳をすれば、僕も提案がこの状況の最適解だと思ったからだ。オルナ町で落ち合う予定だったロートの部下達には会わず、町にも寄らず、正反対の道を歩き隣の、更に隣の町へ身を潜めている。身を潜めるといっても貰った給金で適当な宿を取り、こうして毎日喫茶店に足を運んでは帰るを繰り返しているだけだ。こういう時に裏の世界の人脈や隠れ宿を使うと逆に尻尾を掴まれやすい。人を陥れることに長けている連中は隙あらば金で人間を売り渡す。だからただの冒険者や観光客向けの安宿を僕は利用した。日の当たる道を堂々とは歩けないが、ひっそりととけ込む。意外とこれが一番バレないのだ。
ちびちびと嚥下していく。ぐう、と腹が鳴った。
「ご注文を繰り返します。ハムサンドが一つ、ふんわり卵と海老のホットサンドが……」
甲高い声が騒めきの中響いた。胃が熱く、再び空腹を訴える。腕時計を見れば午後一時を回っていた。僕も追加で注文しようかとメニューに手をかける。無駄遣いはしたくないが昼食は必要経費だ。
「そもそも……だ」
吐き出した言葉は騒めきに消え、しかしマグカップの中の水面を揺らす。耳を澄ませば周囲で一番大きい声の会話くらい聞き分けられるかもしれないが、そんな労力を割きたくもない。
「動けるようになるまで……っていつだよ」
指摘したいのはやまやまだけど、目の前は空席であった。動けるようになるまで。そして持ち去られた僕の切り札。何かをエレノアはやろうとしていた。僕の自由のために、だ。だが、どんなに悪い噂があろうとロート・フォルセーラは天下の財閥の一員で貴族だ。器の魔法使いとはいえただの一人の人間が真正面から戦いを挑んだところでどうにかなる相手ではない。だから僕はあの魔具をいざという時は裏の世界の“やり方”を以て使用しようとした。ロート・フォルセーラ一人を“交渉”可能にまで陥れてやろうとしていた。つまりエレノアのようなちょっと変わっている、けれど“まとも”な人間には宝の持ち腐れであって敗北は必至だ。あの傲慢なお人好しがどう頑張っても覆らない未来は確定している。僕が動けるようになる未来は……あの切り札は無い以上、時間の経過と、「僕との記録は全て消しておけ」と言っていた発言が真であること、それからロート側の諦めいう不安定な可能性にかけるしかないのだ。
けど実のところどうでも良かった。僕の心を今、支配しているのは喪失感だけだ。
僕は、エレノアに負けたのだ。
“アイネの実”を取りこぼしてしまった。最大にして唯一のチャンスを逃してしまったのだ。人生全てを懸け、殺人にまで手を染めようとしたのに。
僕にはもう何も残っていない。鳴っている腹に反してメニューの文字が目から滑っていく。腹と同じく、空っぽだった。貯金や名誉、僅かばかりの他者との繋がりでもない。心の奥底に穴が開き、“アイネの実”は落ちて消えてしまった。
それでも意地汚く生きている。身体は生理現象を訴える。情報収集の場としてここに毎日足を運んでいるのも、店でのトラブルだけはご法度、と冒険者の出入りが激しい喫茶店での不文律があるからだ。死なない可能性が一番高い場所と踏んだからだ。
身体は生きている。けれど心の中の何かが死んでしまった、気がする。それすらもわからないまま、時間を潰す毎日だった。一週間前までエレノアに抱いていた彼女が人間か魔王かの感情のように、矛盾したそれを持て余して“動けるようになるまで”について、恨み言を漏らしている。わかりやすく言えば僕は思考を放棄したいのだ。空っぽの僕は考えるのが苦痛で仕方がないのだ。
でも、僕はずっと寝る前だけでなくエレノアのことだけは考えていた。四六時中、彼女のことを思っていた。
恨み言も、彼女の“動けるようになるまで”の意味も。アイネの実の絵本とエレノアの関係もだ。
彼女は結局人間だった。それは間違いない。
ふんわりとした笑顔の柔らかさ、時折見せる図々しくも「褒めてくれていい」と言い切る姿。傲慢な優しさ。献身的過ぎる態度。頑固なところ。それから選ぶのが嫌いと漏らした本音。それらが所謂“人間らしかった”だけではない。彼女に付き纏っていた人ならざる魔力の威圧感、あの家の恐怖の正体がおそらくわかってしまったからだ。──何故そんな状態なのかは皆目見当もつかないけれど。
それよりも、僕にとってはそんな彼女に負けたことがただ、絶望よりも深く心に穴を開けていた。空虚に近い今の状態を生んでしまっていることの方が重要だった。
何故負けたのか。僕の心が矛盾に悩み、煮え切らなかったからか。つまり、葛藤など捨ててエレノアを殺害しに行かなかったからでもない。ロートに宣言したとおりアイネの実を無視してある程度隙が生まれる程、心を許されたら実行してしまわなかったからでもない。
むしろそっちは最悪の手だった。結果論だが“あれ”が存在している以上、仕掛けたタイミングは最適だったと言えるだろう。では、何が──
と、そこまで考えふと疑問が湧く。何故僕はここまでエレノアのことばかり考えているのだろう。全てを失ったのだ。“アイネの実”という名の好機を掴めなかったのだ。もっとその事実に絶望すべきだ。
僕にとってエレノアはどんな存在だったのだろう。メニューのハムサンドが目に留まり、彼女が作ったそれを思い出す。きっとあちらの方が美味いのだろうと、当たり前のように思考していた。
では、何故彼女に負けたと絶望するのだろう。
ここまで、四六時中考えてしまう程の相手だ。だったら負けても悔いなし、と思うのが正常じゃないだろうか。好敵手、というやつだ。なのに正直に告白すれば全てを失ったことよりも、僕はエレノアへの敗北が尾を引いていた。もう人生に後がないというのに、これからどうしていいかもわからないのに。どうして。
また、ぐうと腹が鳴る。仕方がない、もう何でもいい。とにかく。席に置かれたベルを鳴らし店員を呼ぼうとした時だった。
ドアベルが激しく鳴ったかと思うと複数の足音が鼓膜を打つ。「店長!」と野太い声がしたかと思えば何か大声で話し合っているようだった。するとガタガタガタと一斉に机と椅子が揺れる。隣の間仕切りが大きくうねった。椅子をフローリングに擦りつけて引く甲高い音が耳障りに鼓膜を殴ってくる。騒ぎが、広がっていった。誰かが叫んだ。続いて他の声も。店中に動揺が広がっている。
「お客さん達! 驚いたのはわかったがこれ以上は」
「店長! テレビ見せてくれよ! それどころじゃないって!」
立ち上がり間仕切りからそっと顔を覗かせてみる。常連のような素振りを見せている男が、店長──一週間通い詰めていたらわかった──の腕を叩いている。店長は呆れた顔をしながらも黒のエプロンを靡かせ足早に歩いている。手には“号外”と大きく書かれた新聞。他の見出しは丁度手に隠れ見ることができない。
暗く濃い茶色で統一された店内に一つ、場違いなものがある。硝子張りの扉を押し、正面のレジを右に進んだ先。天井近くに見下ろすようにテレビが配置されていた。
ポケットに店長が手を突っ込む。大きな店長の手には小さく見えるリモコンが画面に向けられ、映像が表示される。
あ! と出そうになる声を僕は無理やり飲み込んだ。
「ロート・フォルセーラが工場開発の件で左遷、だと!」
誰かの声が響き、爆発したかのように沸き立った。




