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5-16 血塗られた英雄として生きようとした先で

5-16 血塗られた英雄として生きようとした先で


 ロート・フォルセーラから任務を告げられた時にも過ぎった考えだ。あまりにも荒唐無稽な話だった。絵本に心酔しているがそれを真実だとは認識していない。僕が生きている世界がかつて魔王に支配されかかっていたなんて誰が信じるのだろう。

 そして何よりも、写真のエレノアがどうしても魔王には見えなかった。この世の絶望も知らず特に苦労もせず恵まれた環境を最大限に利用して地位を手に入れた人間。気に食わないがそれでもただの人間であってほしかった。

 そもそも魔王なんかいない方がいい。ロート・フォルセーラの愚かな勘違いで済むのがいいのだ。

 だが一方でそれは僕の英雄への道が閉ざされるのと同義だった。魔王を倒して成り上がる。拍手喝采、賞賛の嵐の中で僕は高らかに存在を示す。薄汚れた人生を蹴り捨てて大逆転。偉そうに僕を見もしなかった連中の鼻を明かしてやるには魔王が必要なのだ。僕が倒す敵が必要なのだ。

 だったら作ればいい、この絵本のように。真実を混ぜ込み、嘘を伝え続けた物語のように。

 エレノアが魔王じゃなくとも、魔王としてしまえばいい。愚かだが金と権力だけは持ったロートならそれくらい改竄してしまえるだろう。

 人間のエレノアを殺し、魔王としてしまえばいい。真実なんて一欠片あれば僕の英雄譚は成立するのだ。

 残酷で醜悪な考えだ。ゾッとして思いついた自身を詰りたくなり、一度は脳の片隅に追いやり、実際にエレノアと出会ってからもう一度考えようと決めた選択だった。一度逃げねば、可笑しくなってしまう。

こんな醜悪な考えを否定するためにも、エレノアは魔王でなければならない。魔王なら、殺せる。ただの魔物なんだから。僕はそう胸に刻んで、あの夜森に足を踏み入れた。

 そして僕は、この一カ月ずっと苦悩することとなる。

 エレノアとの生活は楽しく、心地良いものだった。時折家全体に漂う圧迫感に付随する妙な家鳴りはあったものの、それを吹き飛ばすくらいの何かをエレノアは持っていた。魔力濃度が高い土地で魔力酔いを起こしている。その可能性に縋っていたいくらいには。

 ささくれだった僕の心を癒し、包み込んでくれるような、かと言って過度に踏み込まず遠巻きから眺められているような穏やかな日々だった。だから、否定したくなかった。魔王の演技だと思いたくなかったので、尚更願ってしまった。エレノアが魔王じゃありませんように、と。

 一方でエレノアは魔王でなければならなかった。どうにか魔王である確実な証拠を掴んで安心したかったのだ。でなければ、僕はただの人殺しだ。地よりも深い底の底で生きてきた僕でも最低限越えなかった一線が殺人だ。何か自分の中の大切なものが壊れてしまうと思ったからだ。傲慢で全てが自分の思いどおりになると思っている女性。でもお人好しで献身的でコロコロと表情を変える女性。全て魔王の演技でいてほしかった。いてほしくなかった。

 そんな矛盾をこの一カ月抱えて生きてきた。ベッドに潜り込み、瞼を下ろす前に考えるのはいつもエレノアのことだった。

 彼女は魔王なのか、人間なのか。僕はどうすべきなのか。圧迫感と心地良さに挟まれながら時間だけがただ経過していった。日中はできるだけ忘れようと振る舞い、突如家鳴りで我に返った。夜が更け明けて、また陽が沈む。僕の矛盾と同じく揺れ動く空を窓から眺めていた。

「でも……結局君の言うとおりだったんだ」

 こんな感情を彼女に見せる資格なんてない。でも、ただ鼻の奥が痛んだ。

「僕は最初から選んでしまっていた。認めたくなくて遠回りしたけど……自分に嘘はつけない」

「……そう」

 息遣いが浅く、小さい。鉄の匂いが一層濃くなってきた。

「僕は君を……人間である君を殺してでも英雄になりたいんだ……それが一番の僕の願いだ」

 醜い自分を露わにしてしまった途端、身体に力が漲る。寝返りを打ち、四つん這いになりエレノアの首に手を伸ばす。今度こそ、今度こそだ。

「エレノア。でも楽しかった。本当に毎日楽しかったんだ。魔王が君じゃなきゃいいなって思うくらいには」

「そう……私も楽しかったわ」

 エレノアは力無く微笑んでいた。血だまりに透明な液体がぽろぽろと零れる。鼻をすすれば「馬鹿ね」と優しい声がした。

「さようなら。エレノア。大切な人。……謝らないよ」

 片手で掴めてしまえる首に力を込める。

 瞬間。

「話は……まだ終わってないわ。二つあるって言ったでしょう」

 エレノアの“右腕”が僕の手を力強く掴んでいた。

「なっ何で……」

「ああっ!」

 咆哮というには慎ましやかな掛け声が僕の鼓膜に届き、僕の手を退ける。そのままふらつきながらも、“しっかりと”立ち上がった。

 エレノアに見下ろされている。何が起こったか全く理解できなかった。だってエレノアは腕を負傷している。太腿を僕に切られ、出血多量で虫の息なはずだった。顔だって青白く……?

「何て顔してんのよ」

 今度こそ僕は本当にエレノアが魔王だと信じそうになり、悲鳴が喉奥から漏れた。腕も、脚も傷が塞がっている。顔はまだ青白いがそれでも僕が馬乗りになっていた時よりかは血色が良くなっていた。

 エレノアは回復している。そんな魔法を使う暇はなかったはずなのに。魔導書も持っていないはずなのに!

 周囲の空気が冷えていく。息苦しさで眩暈がして立ち上がれない。それがこの家に漂っていた圧迫感のせいなのか、僕の今の心境のせいなのか判別できなかった。

 そもそも、だ。僕は疑い始めてしまっている。本当にこの家にずっと圧迫感があったのかどうかをだ。

 エレノアを殺す未来に苦悩していたのは事実だ。僕自身の苦悩が圧迫感と恐怖を生み出していた。この生活は温かく、苦しかったのだ。

 でも、苦しさの原因の一つはこの家に漂う“何か”だ。ロートの言うとおり、エレノアとこの家には“何か”がある。特に家鳴りの度にそれを受けていたのだ。エレノアは人間だが、人間のはずだが、魔王だと言われ信じてしまう圧迫感も確かにあるのだ。今の恐怖もそうだ。僕の心境が原因ではない。間違いなく、エレノアは“何か”を持っている。それを目の当たりにしているのだ。

 なのに僕は一番、今現実を疑っている。

 エレノアの言うとおり、僕の苦悩と矛盾が原因でそう信じたかっただけなのでは。

 エレノアが一番人間じゃない可能性が目の前に提示されているのに!

「まだ……早いって言ってるでしょう。待ちなさい。身体については……礼は言っておく」

 天を仰ぎ何かを呟いている。僕なんて脅威じゃないと言いたげに。寒いのに全身から汗が噴き出てきた。エレノアがたしかに出血した証の中で、僕は四つん這いのまま動けなかった。

 エレノアの魔法のせいじゃない。僕が、選んだ。動けば死ぬ。そんな予感がした。

「フィンレー」

 声はざらついていない。綺麗な、いつもの声だ。

「あなたの夢、素敵だと思うわ。何を言われて、あなたが何をして生きてきたかなんて知らないけど、人にちやほやされたいって思って何が悪いの」

 死刑宣告を告げる裁判官だった。僕は今彼女に裁かれているのだ。

 彼女は、エレノアは人間だ。人間なはずなのだ。僕は殺人を犯そうとした。人間の彼女の命を踏みにじり英雄になる決意をしたのだ。

 でも、今僕を見降ろしている彼女は。

「私だって皆に褒められたい。世の中の大半の人がそうなんじゃないかしら。褒められて、認められて……選ばれて幸せになりたい」

「それは……」

 選ぶのは嫌いなのよ、と叫んでいた彼女の怒りが脳を過る。あの時の彼女は間違いなく本心を語っていた。純粋で透明な綺麗な瞳をしていたのだ。

「でも……手段は選びなさい。人を踏みにじって何が人に認められたい、よ。あなたは選んだんじゃないわ。捨てたのよ、自分に必要ないものも必要なものも全部! 人に、世間に認められたい癖に……」

 エレノアの周囲に冷気が集まり、黒く染まる。それはまるで魔物のようで、違う。そんな可愛いものじゃない!

「人の世に……」

 エレノアが左手を天にかざす。自らの血で染まったそれから血が滴り、僕は目を見開いた。

「嘘だろ……」

 ああ、何故気づかなかったのだろう。僕は自分の迂闊さを呪おうとし、そして心の中で首を振った。違うのだ。エレノアが巧妙に隠していたんだ。器の魔法の発動は右手のみで行なうと僕に信じ込ませたのだ。

 血が滴り落ちたエレノアの“左手”は右手と同じように変色していた。唯一違うのは赤い矢が小指以外全部なくなっているのだった。

 つまり。彼女の器の魔法は両手を使ったものだった。そして左手は既に。

「発動している……」

 でも何処に? 何を固定するために? 僕の問いには当然、解答などない。ただ。

「世の中に認められたいならちゃんと手段は選びなさい! この大馬鹿! 反省してやり直しなさい! 馬鹿!」

 馬鹿を繰り返す、最早幼稚な悪口だった。だが、凄まじい迫力を持ったそれを浴びせられ、そして。

「ノクス!」

 エレノアの咆哮に間抜けな声が漏れた。ノクス? ノクスって僕の好きな絵本の、あのアイネの実の? 混乱に飲まれている間にエレノアの左手の薬指に光が宿る。赤い、血よりも赤いそれが──


『跡形もなく消えろ』


 悍ましい声が耳元でしたかと思えば全身に次々と衝撃が走り、鎧が砕ける。防犯装置が意思を持ったかのように僕を襲っていた。僕の身体めがけて殴打を繰り返し、そして。

「ごっ……!」

 防犯装置が僕の身体を持ち上げる。そしてそのまま一直線に僕が借りていた客室を通り、窓へ突き進む。

「やめなさい! ノクス! 約束でしょ!」

 ふわり。身体が宙に浮く。窓から勢い良く放り出され、そして目の前に防犯装置が迫っていた。

 頭部を潰される──! 瞬間。

 窓の奥から赤い光が放たれる。「戻れ!」とエレノアの必死な叫び声と、悍ましい怒声がして、防犯装置が落下し、僕は。

「フィンレー!」

 エレノアの声が頭上からする。僕は見上げようとして、抵抗を止めた。

 五本の赤い矢が四肢と腹に刺さっている。昆虫の標本。そんな単語が過ぎった。痛みはない。元々物体を貫通する魔法だから。

 僕はエレノアの魔法によって家の外壁に縫いつけられていた。あんなにも馬鹿にしていた魔法に命を救われたのだ。雲母を混ぜ込んだ煉瓦がきらきらと輝く。場違いで、そして。

 ──ああ、何だ。そういうことか。

 身体から力が抜ける。生命力を啜っていた鎧から解放されたが限界だった。意識が遠のいていく。死ではなく疲労から。心地よい抗えない眠りに近く、僕は何だか可笑しくて笑みを浮かべていた。

 エレノアが何かを叫んでいる。身体がゆっくりと地面へと降りていく。意識と共に僕なりの解答がぐるぐると脳を回る。

 僕は、負けた。深い悔しさと後悔と、小さな安堵が一層意識を遠のかせていった。

「フィンレー! …………!」

 エレノアがまた呼んでいる。ああ、次に目を覚ました時、僕はどうなっているんだろう。どうでもいい。今だけは。

「僕の、負けだ……」

 掠れた声は彼女に届いただろうか。きっと彼女なら拾ってくれると、そう願っていた。謝れない僕の精一杯の気持ちだった。

 僕は負けたのだ。根本的な勘違いをずっと滞在中にしていたのだ。これが正解なのかは不明だし、仮にエレノアに尋ねる許しが与えられても彼女は間違いなく真実を語らない。ただロート・フォルセーラも僕もとんでもない勘違いをしていた。


 彼女は、エレノアはやはり人間だ。だが。

 

 彼女が絵本に記された名を叫んだ後、彼女の隣に赤い髪の──絵本で何度も見たノクスの姿が現れたのはきっと気のせいではない。そしてノクスは、あの悍ましい声の正体は──。

 意識はここで途切れた。


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