5-11 取引 その1
5-11 取引 その1
心臓が跳ね、僕は思わずソファの背もたれに強かに背を打ちつけた。三日月の瞳はまだ愉快そうに僕を見つめている。
嘘。金持ちの道楽。捨て駒。
様々な疑いが脳内を駆け巡り、警鐘を鳴らしていた。この男は危険だ。適温のはずの室内で汗が額に滲む。
英雄になれる。讃えられる。それは望むところで僕の人生の目標だ。今でも諦めきれない、裏の世界に落ちても、法を犯しても夢を見ていた。
だが、そんなうまい話があっていいのだろうか。突然、助けられた男に人生の逆転の好機を貰うなんて。
これを僕だけの“アイネの実”としていいのか。
「悪い話ではないと思うのだが」
ロートは窺うように首を傾げ腕を組んだ。露わになった口元は当たり前のように微笑を湛えていた。
「まあ、君がどう思おうがこれは決定事項なんだ。従ってもらう。代わりに最高の英雄となるための助力は惜しまない」
僕が今生きている場所は、裏の世界なんて言えば格好はつくが要は世間の掃きだめだ。世間から後ろ指を刺され、あるいは冷ややかな眼差しすら送られず憎悪と劣等感と羨望の泥を心に抱えて生きている者達の集団。
そんな世界で生きて一つだけ良かったのは人間の悪意が前よりも見抜けるようになったことだ。騙し合いが正常で、疑わなければ喰われ更に転落し最悪死を招く。常態化した緊張が今も肌をひりつかせていた。包帯の下の拷問で焼かれた痕では決してない。
ロート・フォルセーラは悪意を持って僕に語りかけている。あの三日月は僕の心を刈り取る鎌だ。
顎を引き、居住まいを正す。何が起ころうと決して心の底まで信用してはならない。そう誓った僕の耳をとんでもない言葉が打った。
「アイネの実の伝説の絵本を知っているかい?」
しゃくり上げるような声が喉から飛び出した。
「勿論、それは」
「ああ。なら話は早い。最近の子は絵本も読まないで育つと聞いていたから。嘆かわしい」
相手の好みの話題を振るのは人心掌握として有効である。僕を調べたと言っていた。つまりこれは僕の心につけ入るための第一歩かもしれない。臍の辺りに力を込める。青黒くなっているだろう皮膚が痛みを訴えたが用心しなければならない。
「最近の子ってその……そこまで年齢が離れていないと思いますが」
「まあ言葉の綾だよ。少なくとも僕より年下だったから」
ロートが立ち上がり背後に置かれたサイドチェストを開けると、ファイリングされた紙の束をソファに落とす。そして隣に座りまた口を開いた。
「昔ならともかく今現在、あんなちゃちな御伽噺を真実だと信じる者は子ども以外いないだろうさ。だが残念ながら一部は真実なんだ」
ちゃちな、という表現に僕は片眉を上げる。やはり彼は“アイネの実”ではないかもしれない。
「一部? 成熟したアイネの実に本当に魔物を封ずる効果があるのは確かですが」
「それに加えてかな。……よし順を追って話をしよう」
ロートが両手を演説をするかの如く広げる。僕は一目して薬湯を啜った。
「フォルセーラ財閥が武器……戦闘用魔導書に魔具、そして新魔法の開発を行なっているのは知っているかい」
「ええ。その、多岐に渡る事業の一つがそれである。開発をしている程度の知識ですが」
「本当なら武器なぞなくとも皆が平穏に暮らせる世の中が一番なのだろう。だが、平和のため時には人間には武器が必要だ。大切な者を守るため、自分の身を守るため……魔物という生命体ですらない殺戮機械が蔓延っている限り我々は開発の手を止めるのは不可能だ」
白々しいと心の中で溜め息をつく。フォルセーラ財閥が開発している戦闘用魔導書や魔具は半分以上が国外の、魔物より人間同士の諍いが強い地域に輸出されている。つまり、そういうことだ。
「何故だと思う?」
「何故って……その、仰るとおり魔物がいるからじゃ」
「魔物じゃない。魔王、だ。魔物を操り人間を滅ぼそうと蠢く悪魔。魔王がいるからこそ、来るべき日に備え我々は倒すための魔導書を作り続けている」
は、と息が漏れる。自然に眉間に皺が寄ってきた。
「貴族と政府。身近な存在だと警察の上層部には機密事項として明かされている。治安の維持に必要だから。それから上級魔法使いかな。高等な魔法は明らかに戦闘を目的をしたものが多い……そもそも魔法使いという資格は遥か昔、魔物を倒すために誕生した職業が始まりだからね」
「ま、待ってください! 魔王がいる? 何を言っているんですか」
「それが正常な反応だが、今から説明するのは全部真実だ。……魔王は存在していて、今も一部の連中は何としても探し出そうとし、対策を練っている」
「それが兵器を……」
「倒すためにだ。あの絵本のように封印では終わらせない。息の根を止めてやる。今を生きる私達の生活のため。未来に負債は残させない」
訳が分からなかった。僕はあの絵本を人生の指針にしていて、暗唱できる程読み込んでいる。だが、あの絵本がフィクションであるのは重々理解している。僕が信じているのは絵本が伝えてくれた精神性──人には必ず人生をひっくり返してくれるようなチャンスがやって来る──であって、額面通りに真に受けているのではない。ノクスという冒険者が本当に過去にいたとも、ましてや魔王なんて莫大な魔力で魔物を操り人間を滅ぼす存在が本当に存在していたなんて微塵も思わないのだ。
「揶揄っているんですか」
「……それも正常な反応だ」
荒げた語気を軽くロートはいなしてくる。
「残念ながら真実なのだが。大体、こんな話真実でなければ大真面目にするメリットが存在しないだろう。君を騙すなら私はもっと的確な嘘をつく」
「それはそうでしょうけど」
「話を続けさせてもらう。あの絵本の一部の真実とは魔王の存在を明らかにしている点だ。たしかに冷静に考えれば可笑しな話だと思わないか。科学と魔法が発展し豊かになると共に、古からの伝承や怪異といった超常的な存在は全てそれらで証明されていった。例えばハロウ山に霧の出る日だけ現れ人をあの世へと連れ去ると恐れられていた幽霊の正体は、ハロウ地方周辺のみに生える植物が魔力を吐き出す際の花粉が原因だった。人体に幻覚症状を引き起こす大量の花粉を吐き出し、それが霧のように漂い山に居合わせた者に悍ましい幻覚を見せ、遭難させる……これが人攫い幽霊の正体さ」
「それなら何度も。冒険者として、特に魔物討伐を中心として活動する際に研修で聞かされる話です。未知なる恐怖に遭遇しても飲み込まれるな。思考を捨てるな。必ず科学か魔法……魔科学に根拠がある。未知ではなく対処可能な事象だと」
「ああ。だからよく言えば神秘的、悪く言えば胡散臭い人知の及ばぬ世界はどんどん縮小されていった。御伽噺として与太話として世界中の怪奇現象は偽りの烙印を押されていった。だが、その中で! アイネの実の絵本だけは偽りだと、真の歴史にあらずと否定されたのが他に比べ五十年程遅れている。それは何故か。──勘のいい君なら察していると思う。真実が含まれているからだ。嘘八百だと吐き捨ててしまった方が世のためか。恐れるべき脅威として戒めのように民にも知ってもらっていた方がいいか。政府の間でも意見が分かれた。その絵本に描かれた恐怖は真実なのだから」
僕は銜えていたストローを放し、ロートの頭頂部からよく磨かれた革靴の先までをまじまじと眺めた。歴史の授業か? しかも下手糞な詐欺師の詭弁のような話をしやがって。
──と、苛立てれば良かったのだ。実際はストンと、パズルのピースが嵌ってしまったかのように僕の心に繋がってしまっている。──信じそうになって、いやもう信じている。
確かにそうだ。僕は過去の記憶を脳の奥底から引っ張り出してくる。学生時代、魔科学の発展と歴史の授業の時に同じ疑問を抱いたのだ。様々な超常、怪奇現象が文明の発展と共に人間が与えたカテゴリーの中に当て嵌められ、ただの魔科学反応として“異常事態”では無くなっていく中。アイネの実の伝説の絵本だけ、これが作り話であると信じられたのが“遅い” ──それでも僕が生まれるより遥か昔の話だったが──と感じたのだ。挙手し質問をした時教師はただ「魔物という現在でも我々を悩ませる存在に密接に繋がっている物語であったから」と曖昧に濁していた。まさか。ではあの時のあれも、と全てが繋がっていく。
視界が鮮やかに色づいたような気分だ。目から鱗が落ちるとはこういう時に使うのだろう。僕がロートの瞳に視線を合わせると、三日月が怪しく光った気がした。
「つまり、魔王は存在する。アイネの実の伝説の絵本はそれを我々に伝えるために生まれた物語だとそう言いたいんですね」
ロートが顔を輝かせ堪らず僕の両手を掴んだ。
「ああ、ああ。飲み込みが早くて助かる! そうだ、だからアイネの実の伝説の絵本だけ御伽噺として処理されるのに時間がかかったんだ」
「でもそれなら不思議な点が一つ。魔王は絵本では冒険者ノクスの手によって封印をされているのでは」
「違うんだ。そこが一部だけ真実と言った点だ。考えてみてくれ。魔王が今もこの世界で生きている。そんな真実が全ての国民に知れ渡ったらどうなる? 魔物の恐怖に怯えるだけでなく、世界がいつ滅ぶかわからないそんな恐怖も抱えながら生きろと? 当然、そんな世界を作り出してはならない。だが未来のために伝えなければならない。そんな祈りから誰かの手によって昔作られたのがその物語だ。そしてそれを何も知らない絵本作家達が伝え続けた作品の一つが君が読んだ物だろう」
「つまり、その魔王は」
ロートは手を離し、咳払いをする。三日月は大きな瞳へと戻り真剣に僕を射抜いていた。
甘く、そして鋭い声だった。
「魔王はずっと遥か昔から生きてこの世界に潜んでいる。遠い昔、アイネの実に“吸収された魔力”を取り戻す方法を探し求めているんだ」
「アイネの実に備わっているのは魔物を封印する力であり、魔力ではないのでは」
「魔物とは魔力の塊が突然変異した物だ。魔法使いの加工次第でどうとでもなる」
なるほど。僕が頷くと、同様に彼も頷いた。
「人間に扮し姿を何度も変え、永遠の命を使い時代を渡り歩き虎視眈々と世界を滅ぼすその日を待っている。つまり真実はこうだ。遥か昔。魔王は冒険者ノクスの手によって大幅に魔力を削られ、そして人間の姿をとると逃亡した。優れた魔法使いと同等の魔力しか持たない、見た目は完璧に人間に擬態している魔王を探すのは困難だった。何百年もずっと、魔王は逃げ続けているし、誰も発見できなかった。私も戦闘用魔導書の開発に携わることになって始めて聞かされて驚いたよ。フォルセーラ財閥の中でもそれを知っている者と知らぬ者がいる。箝口令が敷かれているがあまりにも荒唐無稽過ぎて、仮に漏洩してしまっても誰も信じないのは不幸中の幸いだな。君が最初信じなかったように、センスのない大半の人間は絶対に信じない。自分の生活を崩す恐怖の存在を認めるのは勇気のある行為で、誰にでもできるものではないからな」
「だから僕にも」
気軽に話したのか。何となくがっかりしたような寂しさが心に到来する。ロートが話しているのは国家の機密事項レベルだ。特別な事情──この場合、漏洩したとしても誰も信じないだろう──がなければ一介の冒険者以下の人間に打ち明けていいわけがないのだ。
「いや違う。君は信じてくれると思ったからこそ、話したんだ。……言っておくが失敗したら始末すればいいと打ち明けたのでもないぞ。折角の逸材だ。嫌でも信じてもらうつもりだった。信じられないのならまだ証拠になるものは沢山用意している。……何より君も“後が”ないだろう」
ソファの上の紙の束を持ち上げロートは小首を傾けてみせた。本当に始めから逃してくれるつもりはなかったらしい。
「それで」
嘘。金持ちの道楽。捨て駒。まだ疑惑は尽きない。そもそもロート・フォルセーラの世間の評判は散々だった。彼が自分のことを知っているのが当たり前だと振る舞うのは半分は自虐だ。ロート・フォルセーラ。彼は下劣な週刊誌の常連であった。複数の女性と同時に付き合いどうにもならなくなったら手切れ金を渡すを繰り返しているだの、高級レストランで子どもでも口にしないような我儘を通そうとトラブルになっただの、彼の記事をスクラップするだけで辞書のような厚さの本が発行できるとはよく言ったものだ。
また外に対してだけでなく、フォルセーラ財閥内でも評判が悪い。彼が開発に携わった魔具が重大な欠陥があり回収騒ぎになったのが一番マシ、という状態だった。今回の工場開発も、発表があってからやれ「起死回生の一手」やら「最後の輝き」やら「やけっぱちの足掻き」やら関係者の証言で週刊誌のページの大半が埋まっていたのは記憶に新しい。今回の工場開発が上手くいかなければ身内から“切られる”とまで言われている男だ。
つまり。後がないのは同じである。あの甘く鋭い声の裏にはもしかしたら不釣り合いな焦燥感が燻っているのかもしれない。沈み行く船。行き止まりの洞窟。地獄への片道切符。嘲笑う材料は大量にある。それでも、それでもだ。
“アイネの実”だった。もう僕は自分の気持ちに嘘はつけない。これが正真正銘最後のチャンスだろう。人生を賭けるに値する最後の。冒険者ノクスが土壇場でアイネの実を魔王に向け封印したように。彼が差し伸べた手は、彼の存在は僕にとっては間違いなく“アイネの実”だったのだ。僕は彼に出会うために生きていたのだ。
視界が回りかけている。気分が悪いんじゃない。心の臓の鼓動が早い。吐く息が熱く、脳に血が上がっていく。産まれて一番の、幸福に包まれていた。
「僕は何をすればいいんです? ──英雄になるために」
僕の伝説は今日、此処より始まるのだ。
目の前の悪魔が目を三日月に光らせた。




