5-9 とある人間の何処にでもある過去 その3
5-9 とある人間の何処にでもある過去 その3
「飲むといい」と差し出された紅茶のカップを僕は口を半開きにして眺めていた。
琥珀色の液体が腫れあがったり擦り切れたりしている僕の顔を映している。抗炎症薬を塗られガーゼを貼られた頬が大袈裟に見えた。
実際大袈裟なんかではないんだけども。大体一時間前まで僕は自分が“死ぬ”と思っていたのだから。
凄惨な現場を生き延びて連れて行かれたのは何処かの地下室で、僕は“連中”に殴られていた。曰くお前のせいだと。お前が身を挺して戦えば魔物に勝利できたと。そんなわけないじゃないか。僕ごときの力でひっくり返せる状況ならそもそも誰も死んじゃいない。鈍い痛みが続けば皮膚が、神経が麻痺してきて冷静に周囲を見渡していた。
「おい、反省が足りねぇみてぇだな」
パン、と乾いた音。頬を叩かれたと理解する前に胃が口から飛び出しそうな衝撃。腹を殴られた回数を数えるのも飽きてしまった。要は腹いせなのだ。失敗して、更に上に合わせる顔がないから僕を殴って発散している。僕一人を痛めつけても何も変わらないのに、お前達が上から制裁を受ける未来は。
「これが最後のチャンスだったのにお前のせいで潰れたぞ」
乾いた笑いが喉奥から飛び出した途端、目の前にいた男が舌打ちをしてもう一度腹部に衝撃が走る。嘔吐する胃液も枯れてしまった。痛い、というよりも楽になりたい。
薄暗い灰色のコンクリートの壁に囲まれた部屋から僕が生きて外に出ることはないのだろう。不思議と受け入れてしまっていた。
思えば──走馬灯ってあるんだと自嘲すれば先程の男よりも背の高い奴が顎を蹴り上げてくる。流石に歯を食いしばり耐えれば「何堪えてるんだ」と理不尽な罵声を浴びせられた。口から何か垂れている。もう何カ所も切れている口内の傷が増えたのだと、床に落ちた血液でようやく気がついた。
思えば碌な人生じゃなかったな、僕。
アイネの実が。正確にはノクスにとってのアイネの実に匹敵する特別になれる何かをずっと追い求めてきた。なのにこの様だ。自分にとって譲れない大切なものを一つ手に入れたい。そんな願いすら叶わないのか。そんなことがあってもいいのか。
ライセンスを得ないで魔法を使用するとなると、裏の仕事は増える代わりに表の仕事は減っていった。法を犯した先で僕は力を手にして、“アイネの実”に確実に近づいた。「見どころがある」と微笑まれた。「使える奴だ」と褒めたたえられた。「感謝している」と抱きつかれた。順調だったはずなのに。今回の依頼も難なくこなし、僕の顔を売るつもりだったのに。
まあ、もうどうでもいいか。人生が僕を見放したなら僕も自分の命を見放そう。
両手首に鉄製の腕輪を嵌められ、そこから伸びた鎖が天井へと繋がっている。Yの字の形で僕は拘束され、何度も何度も殴られ、なじられていた。
「こいつ結局どうするんです?」
「今更帰せるわけがないだろう。どうやら俺達が何と繋がっているかも知っちまっているし」
男が二人、僕に背を向けて肩を寄せ合い相談を始めた。ああ、たしかに杜撰過ぎて現場ではこの依頼の大元はフォルセーラ財閥だと誰もが理解してしまってた。裏の世界でも知らない方がいい更に“裏”があるのだ。
できるだけ聞こえないように溜め息を吐く。どうせ終わりなら殴られる回数は減らしたい。
その時だった。
「お前達何をやっている!」
もう一度溜め息をつこうとすれば凛としてそして何処か柔らかさが残った声と共に視線の先の扉からする。扉がけたたましく蹴破られ光が差し込んでくる。眩しくて僕は思わず目を閉じた。
「何だ、てめぇ」
「待て! こいつは……」
そこからはもう、怒涛の展開だった。五、六人の人間がなだれ込んだ途端、火花が散る。魔法だった。一瞬で僕に制裁を加えていた男達は宙で妙な方向に身体が曲がり、そして床に叩きつけられ動かなくなる。
「助けが遅れてすまなかった」
「さあ、目を閉じて。少し痛いかもしれませんが」
全身がぬるま湯に浸かっているような感覚に襲われる。応急処置の魔法を使われているのだと気づいた時には手首の鎖を外されていた。
「説明は後だ」
最初の凛とした声の持ち主だった。逆光と霞む視界で顔は不明だ。遠くで「担架を!」と怒鳴り声がして何人もの足音が近づいてきた。僕に応急処置魔法をかけていた男は先程魔法で床に叩きつけられた二人組へと向かっている。耳を澄ましてみればざらついた呼吸音がした。どうやら生きていたらしい。あんなに酷い目に遭わされたのにも関わらず僕は安堵していた。お人好しなのではない。ただ当分は人間が死ぬ瞬間を目に入れたくなかっただけだ。飽きる程、魔物に蹂躙される人間を目に焼き付けてしまった。
身体が宙に浮く。凛とした声の持ち主と後から来た女性が僕の身体を抱え担架に乗せた。ゆっくりと運ばれる。そして薄暗く湿った部屋を出て、階段を上がっていく。
ようやくそこで僕は声の主の正体に腫れた瞼を無理やりにでも持ち上げることとなった。
「ロート・フォルセーラ……!」
この国にいる人間なら誰もが知っているだろう。末端とはいえフォルセーラ財閥の一族が突然裏社会で名を馳せ始め、そして転がり落ち人生を終えようとしていた僕の目の前に現れたのだった。
「ああ、すまない。その口だと飲みにくいよな」
ロートは眉を下げるとソファの背後にいた男に声をかけた。黒々とした髪を後ろに撫でつけた大柄な男は一礼して部屋を去って行く。幼い頃読んだ絵本の世界の執事みたいだ──アイネの実以外の本だって当然読んでいる──そんな考えが一瞬過ぎった。
一応僕に出されたものだと包帯でぐるぐる巻きの腕でカップを掴もうとする。特に右手の小指と中指がぐるぐる巻きにされているので取っ手を親指と人差し指で挟もうとして──止めた。上品なピンクと黄色の花が側面に散らされ縁は金で彩られていたカップと花の形を想起させる真っ白なソーサー。今の僕の全財産をつぎ込んでもソーサー一皿分にも満たない気がする。
“執事”が戻ってきてローテーブルの端に刺繍が美しいコースター、ストローつきのグラスを置く。ロートがそっと手を差し出した。
「染みないよう、魔法をかけてある。粘膜を保護する効果のある薬湯を冷ましたものだ。通常の飲み物よりは染みないだろう。さあ」
促され僕は左手でグラスを握りしめた。ストローを口に運ぶ。幼い頃に飲んだシロップ状の薬の味がした。
「あまり美味しくはないよな。私も怪我をするとよく飲まされたのだが」
苦笑いを浮かべ僕の顔を穴が開くんじゃないかという勢いでじっと見てくる。居た堪れない。未だ状況を把握できておらず、喋るのも億劫だったが僕は咥えたストローを離した。
「子ども向けの薬の味を思い出しますが美味しいです」
「本当にかね? 舌の上で甘みがずっと残るような味……私は苦手で」
「昔を思い出す懐かしい味ですし、それにこうやって喋れている」
魔法がかけられた薬湯の効果は絶大だった。舌で触れるだけで激痛が走った口内の切り傷はゼリー状の薄い膜に覆われているようで染みないし、口を動かしても血の味を滲ませることはなかったのだ。多少麻酔をかけた後のような口の動かしにくさは感じるものの、会話して水分を補給する分には何も問題はなかった。
「それなら良かった。ああ、君の言いたいことはわかる。『こんな雑談するために俺を呼んだのか』、『ロート・フォルセーラが一体何のようだ』だろ?」
「それよりも状況自体がよく呑み込めてないんですが」
「なるほど。説明がほしいと」
うん、うんとロートは頷く。自分の知名度に信頼を置いた口振りに少しだけ苛ついたが、それよりも今は何が起きたかを知るのが先だった。
ガタンと目の前から音がする。ロートが勢い良く立ち上がったからだった。
出涸らしのお茶のような色をしているグラスの表面からその整った顔に視線を移す。真剣な光を帯びた眼差しに反しくしゃりと顔を歪めていた。
「すまなかった!」
直角。それに近い角度でロートが腰を折り頭を下げる。僕はポカンと開きにくい口を空けながらその後頭部を見つめることになった。




