5-7 罠
5-7 罠
明かりがついていないのに予想外に明るい。不思議に思えばすぐに疑問は氷解する。何故か僕の、正確には僕が使用していた客間の扉が、更にその先でカーテンどころか窓も全開だった。
カーテンが靡く。何か意味があるに違いないが理解できない。視線を横に動かせば隣の空き部屋も扉が全開になっているが扉自体が廊下を塞いでしまっていて、中央の部屋の内部、更に奥の空き部屋はここからでは確認できない。ここの扉は全部廊下側から見て右側に蝶番がある開き戸で、入室する時に引き、出る時に押す構造をしている。だから客室の扉は視界を塞がないで階段の踊り場を見下ろすスペースを塞いでいるだけだが、中央の扉は見事に廊下を塞いでしまっていた。ただ奥の扉も同じ可能性が高い。その場に立ったまま反対を向く。エレノアの自室の扉は閉まっていた。
血痕の一本道がそこに続いていた。
血痕を信じれば自室にエレノアは潜んでいる。けれど、何故客間と空き部屋が?
水滴の音はもうしなくなっていた。今、目で確認できないのは客間の更に奥。L字の廊下の短辺の一番奥の部屋だ。そちらに血痕は続いていない。
──さて。どうするべきか。
剣を構えながら僕は右から左へと視線を巡らす。リスクは高いが水音の方に剣を振るうのも手だろう。それで万が一エレノアに当たったなら御の字だ。エレノアはきっと僕とまだ話したいんだろうけど、僕は一刻も早く彼女を殺してしまいたいのだ。
結局。
「エレノアいるんだろう。逃げられないな」
僕はわざと自室に向けて大声で話しかけた。極力足音を消して客室に向かいながらだ。罠かもしれないが、開いている方に行く。そう決めた。
まず彼女の出血量。腕と太腿を負傷している。だったら点々と続く小さな血痕じゃ済まない量を流しているはずなのだ。だからこそエレノアは本当の出血量の血痕は残さない。自分の進んでいない方に小さな血痕を垂らして背後から僕を狙うつもりだろう。そのための仕掛けがこの開いた窓や扉に違いない。小細工ができない程に疲弊し呼吸は乱れ意識が朦朧としているはずなのによくやる。僕は呆れて息を吐きながら床を凝視した。
何よりも三つの部屋の方の床に目を凝らせばフローリングの木目に赤い線が刻まれていた。血液を拭きとっている痕跡だった。
つまりエレノアはこちらにいるのを隠したいのだ。
「“血痕をわざと残して自室にいると見せかけて本当は別の場所に潜んでいる”……そう思わせたかったんだろうけど残念だ。君のその血痕を見るにそんなに罠を張っている場合じゃない。違うかい?」
当然答えはない。エレノアにとって自分の居場所を悟られることは自分の死だけではなく、僕の死にも近づく。つまり“心優しく”傲慢な彼女にとって都合が悪いのだ。自分が死ぬのも僕が生命力を使い果たすのも避けるのが彼女の勝利条件だ。
「きっと何か罠を仕掛けようとしたんだろう? だから扉や窓が開いている。でも限界で結局部屋に逃げ込んだ。二階に上がるまでもかなりの血痕が落ちていた。そろそろ出血多量で意識もはっきりしないんじゃないか?」
あと一歩で曲がり角だ。まずは僕の部屋から確認し、順番にエレノアを探す。悟られないように声を張り上げ、あたかもエレノアの自室に狙いを定めているように振舞った。
「なあ、僕だって一カ月も一緒に暮らして世話してもらった人間を苦しめたくはないんだ。一思いに首を刎ねてあげるから! 大人しく自分の部屋から出てきてくれないか? もう魔法を使う体力も残ってないんだろう? そんな出血じゃ早く手当しないと助からない。消耗戦になれば苦しんで死ぬのは君だよ、エレノア。だったらもう諦めて出てきてくれないかな。扉の前で待ってるからさぁ!」
そう叫ぶと僕は一歩右へと跳躍する。まずは廊下の奥まで見ようと中央の部屋の扉のドアノブに手をかけた瞬間、ガタンと大きな物音が中央の部屋からしたのだった。
──しめた!
「そこか!」
僕は中央の部屋めがけて扉越しに剣を縦に薙ぎ払う。本当は横に薙ぎ払いたかったが狭い廊下で、しかも扉が開きっ放しで塞いでいる状態では無理だった。
ガタガタと更に音がする。僕は口角を知らずの内に上げ、一回中央の扉を閉め、そしてもう一度開けて侵入しようとした。
エレノアがそこにいる。呻き声はしなかったから刃は当たっていないだろうが、次は外さない。鎧が激しく食い込み、口の中に苦いものがこみ上げてくる。構うものか。無理やり嚥下して剣を大きく背後に反らせるように振り上げながら部屋を見渡す。いつでも振りかぶれるように身体を三日月のように反らしたまま一歩を踏み出せば、本が床に散乱し、本棚に空白が生まれていた。
本? さっきの音の正体は──本の山に三本赤い矢が刺さってそして粒子となって消えていくのが視界に飛び込んでくる。カッと血液が頭に上がり、その爆発のような感情が歯ぎしりとなって飛び出した。すると、背中を激しく突き飛ばされた。
「あああっ!」
喉から絞り出したエレノアの声が鼓膜を不快に揺さぶった。振り返ろうとしたが身体が後ろへと引っ張られる感覚と同時に激しい音が響く。踏み止まろうと足を前に出せば、右手が“固定されていた”。魔法? 違うこれは引っ張られたんじゃない──!
「エレノア! 君はっ!」
岩石を無理やり砕く音と言えばいいのだろうか。固い何か、正しくは“僕の剣が扉に挟まった音”が扉を挟んで僕とエレノアの間に響き渡る。右手は固定なんかされていない。魔法でもない。僕が右手で握っている剣が扉に挟まり固定されていただけだった。挟まっているとは露知らず剣を前に下ろそうとしたため、引っ張られたと感じただけだったのだ。
──だけなのだが、それはとんでもない未来を予期していた。
「離せ! 何をしているんだ!」
エレノアは答えない。ただ物凄い力で、おそらく全体重をかけて扉を廊下から押してくる。
「止めろっ! エレノア!」
メキメキと剣から悲鳴が上がったと同時に、運悪く眩暈が襲ってくる。一瞬糸が切れたかのように僕の身体から力が抜け、すると右腕が浮いたような感覚を味わった。
いけない! 絶対に剣を離してはならない。そう祈るように右手だけは感覚がなくなる程握りしめ、踏みとどまった。
だが無慈悲にも体勢を崩してしまう。膝から崩れ落ちそうになった途端、今度こそ僕の意地の握り拳ごと右手が浮いた。いや、正確には違う。剣が扉の隙間から廊下の先に引っ張られ、僕は背を扉に打ちつけた。
「何てことを考えるんだ!」
止めなければ! 振り返る暇はない! エレノアが扉を押す力を緩めたのは一瞬で、また押し合いが始まっていた。背中が扉についているということはつまり、刃はもう殆どがエレノア側に出てしまっていて、柄だけが部屋の内側にある状態だった。僕は扉とエレノアに背を向けたまま、膝に無理に力を込めた。その結果、東洋で言う四股を踏むポーズのまま、剣を握りしめた右手だけ上げている、そんな妙な格好を取ってしまっていた。これでは碌に力なんか入らない。けど、柄を離したら負けだ──! 再度柄を握りしめるも力が入らないどころか手首が捻られ痛みが走る。当たり前だ。剣を勢い良く振り上げ、そして振り下ろそうとしたポーズのまま、刀身を無理やり後ろに引っ張られているのだ。
扉を一つ挟んで、その僅かな隙間から僕とエレノアは剣を奪い合っていた。
エレノアは僕から剣を奪おうとしていた。僕を無力化しようとこんな荒業に出たのだ。
「くそっ!」
僕とエレノアでは圧倒的な体格という差があった。無論僕の方が大きい。だから普通に綱引きをすれば負けるのはエレノアだった。例えばエレノアが無策で僕に飛びかかり、剣を奪おうとする。剣の形を取っているとはいえこれは魔導書なので剣本来の刃物の機能は失われている。つまり刀身を握りしめても手が血塗れになるなんてことはないが、振り解いてしまうのは容易だろう。そして尻餅をついたエレノアに光刃を浴びせればそれで終了だ。だから彼女はそんな愚かな真似はしないのだ。
エレノアは自分が圧倒的に有利になるように仕組んだ綱引きを僕に強制してきた。
僕は禁止魔法のせいで体力を失っていて、おまけに力の入らない体勢を強要されている。一方でエレノアは押すも引くも思うが儘。ガチガチと剣が扉とぶつかり合い耳障りな音を立てる。剣の鍔が辛うじて引っ掛かり、柄が僕側にある状態だった。けど、それも気を抜けば終わる。エレノアが突然扉を押す力を抜いて“鍔が通るくらい扉に隙間が一瞬でもできれば”手首が痛み更に生命力を吸われた疲労も相まって、握力に限界を感じ始めた僕から剣を奪う未来は眼前まで迫っていた。容易に想像がついてしまうのだ。
手が熱く発汗している。手甲の内側の布地が汗を吸い込み生温かく固いタオルを握りしめているような不快感に襲われた。目視できないが扉の縁が削れていく、そんな音が頭上からした。家を犠牲にしてまでエレノアは僕から大切なものを奪おうと必死だった。
こんなはずじゃなかった。肘が扉を叩く。僕はエレノアを魔法使いらしく、冒険者らしく仕留めるつもりだったのだ。“選ばれた者しか使えない魔法”で器の魔法使いを倒す、描いていた未来は凄惨で僕の輝かしい再起の幕開けに相応しかったはずだ。
なのに蓋を開けてみればこれは何だ。
歯が怒りでガチガチと鳴る。扉を押す左手が滑りかけ、慌てて一層爪を立てて押す。押すというよりは下半身のバランスを支えている、が正しかったが。
倒すべき──はちゃちな魔法で子どもの悪戯を仕掛けてくる。そして最終的には扉を挟んだ妙な格好での綱引きだ。膝が震えていた。太腿が僕の気持ち以上に重い。
ふざけるな。こんな、こんな!
カン、と脳に響く程歯を噛みしめた。薄暗く、埃っぽい部屋の乾いた空気が喉をざらつかせる。額の汗が鎧に落ち、そのまま床に落ちていった。
──気をつけてくれよ。
ああ、そうだ。この鎧は。不意に思い出すのは甘く危険な声だった。鎧と剣。どちらも賜ったものだ。“あの人”が僕のために。だから失うわけにはいかないのだ。
そう。だから。
脳が冷えていく。血がゆっくりと地面へと下がっていく感覚に陥った。そして。
「えっ!」
仕方なく僕は“一度剣から手を離し”、そのまま尻餅をつく。剣から一層耳障りな音がして間髪入れずに扉越しに鈍い衝撃を感じた。
身体を浮かし背中で扉を少し押す。剣の鍔が通れるくらいの隙間ができればそれでいいのだ。そのまま起き上がり体勢を立て直す。屈んで拾っている暇はない。
「そんなに剣が欲しいならやるよ!」
まずは挟まった剣を思い切り廊下側に蹴り飛ばす。エレノアの動揺した悲鳴が心地よかったが聞き惚れている時間はない。次にすぐさま僕は扉に全体重を込めたタックルをかました。
扉と共に何か“重い物”を勢い良く跳ね飛ばせば、向かいの壁に血が飛び散っていった。呻き声がたしかに鼓膜に届き、僕はにんまりと唇の形を弧にした。
扉を潜りけたたましく閉め、廊下へ出る。眼下には想像どおりの光景が広がっていた。
「う……」
右に先程弾き飛ばした剣。左に血塗れで──僕に扉越しに吹っ飛ばされたせいで仰向けに倒れているエレノア。
エレノアが物凄い勢いで上体を起こし右手をかざす。光り輝く赤い線はやはり五本で一気に発射された。剣を床に縫いつける気だ。僕は剣を庇うように間に立つ。背中に五発、小突かれた程度の衝撃だけが伝わり魔法が無効化される。そのまま踏み出し剣を拾い、振り返る。エレノアは呆然として僕を見上げていた。
呼吸が互いに荒い。エレノアは玄関で見たときより顔から血の気が失せていた。
「あげるのは嘘だよ。剣を奪おうなんてよく考えたね」
今度こそ。僕は身じろぎもしないで上体だけ起こしたままのエレノアに残虐に微笑みかける。
「この鎧がある僕に魔法は効かない。けど、例えば君が僕の顔面を殴ったとしたらそれは魔法で防げない。もっとも、そんな真正面から殴りかかってきたらこの剣の餌食だし、そもそも君に殴られたところでちっとも痛くないけど」
エレノアは答えない。目を見開いたまま硬直している。いい気味だ。
「君の部屋に続いている血痕はわかりやすい罠だ。あからさま過ぎてそっちには行かないって僕に判断させるための。こっちの三つの部屋がある廊下に来てもらうためにあんなことをした。部屋の扉を全開にしていたのは部屋を調べさせないためだ。客室だけ全開になってたら不自然だから全部開けておいた。違う? 僕の部屋のクローゼットにでも隠れてたんだろ。隠れる前に僕に傷一つ負わせられないその魔法を、元々の用途で使って」
本を支える。エレノアはその用途どおりに二カ所に使用した。まず本棚の本の一部を床に置き、余裕を持たせた状態で本棚に残っている本を一カ所矢で固定する。そしてもう一カ所は本が棚から落ちるように、例えば本棚からはみ出し手を離せば床に落ちてしまう状態で置いて魔法で固定するのだ。
「僕が二階に上がってきたのを音で確認し一カ所解除する。矢で支えられていた本は本棚の中で倒れ、僕が音がした方に向かいながら魔法を使うよう誘導したんだね。そして僕の魔法発動後にもう一カ所の矢で縫いつけた場所を解除する。まるで“僕の魔法が当たり、痛みでのたうち回っているように音を出して”。そうなれば僕は真ん中の部屋に勇んで踏み込んでいくと思ったんだろ? 実際まんまと引っかかったよ。だってまさか背後から剣を奪おうと扉で挟んでくるなんて……しょうもない手を使うとは思わないじゃないか。器の、魔法使い様が」
二本の矢が粒子になるのを見て、僕はしてやられたと顔を歪めた。こんな単純な罠にひっかかるなんてと今でも恥で泣きそうになる。エレノアがしょうもない罠を作るのは玄関で理解していたはずなのに!
「でも。これで終わりだよ、エレノア。何か言い残すことは?」
僕は剣を構える。もう自分の命を削る程の威力は必要ない。ただ少しだけ魔力という名の生命力を吸わせ、小さな刃を走らせればいいのだ。そうすればエレノアの首は飛ぶ。呆然とした表情のまま、永遠に形を変えることが無くなる。
はずだった。
「は」
動揺を見せてはならない。そう顔面の筋肉に力を入れるも声帯だけは震えて音となった。
いつものが、来ない。身体に食い込む痛みが、視界がぐるぐる回る眩暈が。魔法を発動させようとしているのに!
「……魔導書とは」
エレノアが一度ゆっくりと瞳を閉じる。よく見れば倒れた場所から少しずつ血が広がっていた。呼吸が浅く、荒い。しゃくり上げるような音に紛れているのに、それでも僕の耳に言葉は確かに届いていた。
開いた瞳は生命の灯火が消えそうで。でも自信に満ちていた。
「魔法を唱えるための道具であり、悪用を避けるために基本的に大きく作られ、そして破損していたら発動できない仕組みになっている。本の魔導書から使いたい魔法が記されたページを破り取って使うことは許されない。それは破り取ったページだけでなく、破られた魔導書の本体も同じなのよ。……あなたもよく知っているはず」
「馬鹿な、だって君は」
かつて共にダイニングで語り合った日々が。学園で学ぶまでもない世の常識が頭を支配する。
──基本的に魔導書に身体の一部が触れている状態で魔力を込める、が唱える条件だったよね。しかも魔導書……魔法の本体となる方はちゃんと元の形をしてなければ発動しない。例えば唱えたい魔法のページだけを破って持っているとかは無効になる。大きな魔法の本体を壊さずに触れた状態でないと大半の魔法使いは魔法を唱えられない。
得意気に語っていた記憶。珈琲の匂いが鼻先で蘇る。まさか。
「誰がいつあなたから魔導書を“奪って”交渉しようとしたって? フィンレー」
べちゃ、と水音がする。よろけながらエレノアは緩慢な動きで立とうと藻掻いていた。右腕を押さえた左手が相変わらず真っ赤だ。紺色のズボンは膝の方まで自らの血液で変色している。
「その禁止魔法の魔導書が何故大きな戦車サイズで作られたか。それは魔法の複雑さもあったけど、破損を恐れるためだったのよ。単純に考えれば当たり前よね。攻撃魔法が飛び交う戦場で、一番恐れるべきは魔導書の破損。戦場で魔法が使えなくなるのはそのまま死を招くから、だから魔導書自体に装甲をつけた」
そんな事情知りたかないけど、とエレノアは鼻で笑った。
「あなたが剣を振り回してるのを見て真っ先に思ったわ。あなたに腕力があったとしても“軽々と振り回し過ぎている”。小型化、軽量化に高度な技術は使用されているけど、一方で守るための装甲を捨ててしまっているって。本来魔導書に必要な耐久性を担うパーツを全部取りつけていないのよ、それ。だって本来は戦車よりも大きく重量がある魔導書なのよ? それがそんなに小さくなったってことは……とてつもなく壊れやすいのよ」
「君はっ……」
剣を振り下ろす。振り回す。が、何も起きない。鎧は僕の身体に食い込まず、剣は光刃を出すどころか刀身が光りすらしない。
頭が真っ白になる。右手が震え、それでも僕は視界に入れようと腕をゆっくりと上げ、目を見開いた。
「よく見てみなさいよ。……扉に暫く挟まれていたせいでヒビが入っているじゃない。そこに小さいけど破片も落ちている」
度重なる衝撃のせいで、僕の剣は、魔導書は。
ヒビが入り、刀身が欠けていた。
「最初からあなたの剣を破壊するのが狙いだった。さあ、もうあなたは魔法が使えない。私を殺すのも、魔法の使い過ぎで死ぬこともできないわ。……交渉の時間よ」




