4-10 別れの前のひと時を
4-10 別れの前のひと時を
あと数日だけどよろしくと交わした握手は共に手が湿っていた。
軽く握った途端、生温かさと共に伝わったそれに僕達は顔を見合わせどちらともなく頬を綻ばせたのだった。
そうして戻ったエレノアの家で僕達は再び話し合う。今までを踏まえて僕の今後についてだ。
「何でアイネの実なんだろう?」
カップにスポンジを滑らせ洗い桶へと置いたエレノアがこちらを向いた。
「連中……フォルセーラ財閥が何故欲しがってるかって意味?」
「うん」
「それはあなたの方が知ってそうだけど」
「僕は使い捨ての末端だよ。奪ってこいと脅されたから動いているだけで理由なんかわかる必要はないんだ」
でも、気にはなっている。それが本心ではあった。
「ずっとそんなことを考える余裕すらなかったんだ。けど全部白状してしまった今、急に不思議になってきて」
エレノアが蛇口のレバーを上げ水を出す。洗い桶に入れた泡だらけのカップを二つ、水に潜らせると水切りラックへと収めていった。僕はそれを受け取りタオルで拭くと背後の棚へとしまう。両開きの扉を閉めた時だった。
「まあ、プロポーズ予定でもあるんじゃないかしら」
「フォルセーラ財閥の誰かが?」
「ええ。私なら盗品でプロポーズとかしたくもされたくもないけど」
「千年の恋も冷める……ってやつかな」
そりゃあそうだと頷いていれば背後の水音が止まる。振り返れば小さなティーポットが一つラックへと置かれていた。これは少し自然乾燥に任せてからしまうのだとエレノアはシンクにかけられたタオルで手の水気を取っていた。
「さっきのノートの真ん中の辺りの頁。開いてみて」
シンク上の明かりを消しながらそう告げるエレノアを台所に置いたまま、僕はリビングダイニングへと向かう。ノートを開き、三ページ程捲ったところで目を見開いた。
「『ロート・フォルセーラ婚約発表間近か? お相手は本誌が以前より追っていた女優の……』、何これ?」
「週刊誌の切り抜き。名前は……」
エレノアが口にした雑誌名で僕はげんなりと溜め息をついた。
「下世話な話題と飛ばし記事が大半を占めるゴシップ誌じゃないか」
「ええ。まあ、低俗だとか信じる読者は馬鹿だとかよく言われているわね」
「君、こんな雑誌読むの?」
「欲しい情報がある時には買う」
台所で声を張っていたエレノアが寄ってくる。僕はそのままソファの端に座り、エレノアはその隣に腰を下ろした。
「欲しいって真実かもわからない……というよりも殆ど嘘に塗れたこれを? 五百アンも払って?」
その五百アンに少しだけ色をつけて喫茶店で珈琲とケーキセットでも注文した方が有用だろう。僕が顔を顰めればエレノアは首を振った。
「だからこそよ。嘘に塗れているからこそ“どうしてそんな嘘が生まれたか”が知りたい」
「どうしてってそんなの嘘で金を稼ぐためだろう」
「その通り。誰もそんな雑誌の記事を信じちゃいないわ。だから読者が求めているのはそもそも嘘なのよ」
「嘘を?」
「ただの嘘じゃないわよ。例えばこんな辺鄙なところで暮らしてる私が十億アン相当の金塊を掘り当てたとかそんな面白味もないのじゃない。誰もが知っている誰かを思う存分馬鹿にできて、かつ真実味のある嘘……それが求められている」
「もしかして……」
あまりにも聞き覚えがある思考にチクリと胸が痛んだ。つまり、あの雑誌の購入者の志向は僕と。後頭部の痛みに顔を顰めていればエレノアが小さく息をついた。
「そんなつもりで言ったんじゃなかったんだけど……ごめんなさい」
「いや、大丈夫。続けて」
部屋に泥濘に嵌まったような空気が漂う。努めて明るい声を出せば安堵したようにエレノアが続けた。
「要はちょっと信じかけてしまえるし、人を馬鹿にして溜飲が下がるような嘘が載っているのよ。で、信じかけてしまえるということは“何処かは真実に掠っている”ことが多い。一欠片の真相を膨らませてる、と言った方がわかりやすいかしら。例えばとある有名人が服屋で子ども用の靴を購入した。真相はその人の姪の誕生日が近かったからプレゼントを購入したに過ぎない。けれどこの雑誌は“子ども用の靴を購入した”事実から話を低俗で読者が喜ぶように脚色するのよ。一夜限りの関係を持った女性との間に子どもがいてそのプレゼントだとか。実は他にも隠し子が三人いる、だとか」
「無茶苦茶だ。信じられない」
「ええ。でも、根拠だけは真実でしょう」
得意気にエレノアが口角を上げる。たしかに言いたいことは分かる。筋も通っている。でもそれはつまり。
「まさかこれ僕への脅迫の根拠と言いたいの?」
「その記事にあるとおり、本当に婚姻済みの女優を口説き落とすためにアイネの実を用意したかは不明だわ。載っている略奪愛だの、不倫だの、そんなものは嘘だろうし興味もない。でもロート・フォルセーラが誰かしらにプロポーズをしようとアイネの実を求めたのは本当だと思っている」
「それこそ根拠は?」
「よく読んでみなさい。宝石店を梯子している盗撮写真が掲載されているでしょ? つまり理由はどうであれロート・フォルセーラが宝石店を何件も回ったのは事実なのよ。そしてここ数カ月程の宝石泥棒の件や開発の件を照らし合わせれば……まあ、何か邪推をしちゃうわよね」
驚きから甲高い声が喉を漏れ、ノートがフローリングへと落ちた。エレノアは屈むように上体を伸ばし拾い肩を竦めた。
「貴族にとってアイネの実は昔からプロポーズ用と相場が決まっている。となれば」
「嘘だろう」
僕は色恋沙汰に巻き込まれてこんな目に遭っているのか。愕然と両手で頭を抱えれば、塞いだ耳の向こうからエレノアの心配げな声が聞こえた。
──君にとっては最大の好機となる。
優しくもどろりとした液体のような声が僕の脳で反響している。ああ、何だそうか。それでも。
一瞬脱力し、そして勢い良く顔を上げた。見慣れた部屋のインテリアが僕を迎え、思わず笑い飛ばしてしまいそうになる。
だからと言って何も変わらないのだ。僕の過去も、これからも。
「……結局どうするつもりなの?」
歯車が噛み合うようにエレノアの声が響き、僕を急かした。無理もない。元々僕のこれからを、アイネの実をどうするかを決める話し合いだったのだから。
「連中に渡したいんだ、エレノアには悪いけど」
僕からエレノアと視線を合わせる。不安気に瞳が揺れていてほんの少しだけ罪悪感が鎌首をもたげてきた。
「騙されて脅されてってエレノアは怒るだろうけどさ。どうしようもない僕に“慰め”をくれたのも連中なんだ」
「見下すだの何だのっていう?」
「それでも……その恩には報いたい」
エレノアがぐっと顔を近づけてソファが軋んだ。
「正気?」
「……正気も正気さ。もっとも君がアイネの実をくれるのならばだけど」
「恩なんて感じちゃいけない奴等だろうに」
不貞腐れたように顔を背けられる。当然の反応だった。
「本当にそれで連中と縁が切れるのね」
顔を離していったエレノアがソファの背に勢い良くもたれかかる。天井を見つめたまま、エレノアは続けた。
「え?」
「縁を切って真っ当な冒険者に戻れるかって聞いてるのよ」
苛立ったように声を張っている。でもどこか温かみのある声だった。
「切れるよ、さっき説明しただろう」
「じゃあ契約どおり持っていきなさい」
今度は僕がソファを軋ませる番だった。
「正気?」
「それこそさっき説明したとおりよ。二言はない。あなたがそれを望むなら私は全く構わないわ。ただ」
首を痛めるんじゃないかという勢いでエレノアが上体を起こした。
「アイネの実の収穫までもう少し時間がかかるわ。時期の報告はちゃんと済んでいるのよね?」
頷けばエレノアが緩く微笑む。いつもの光景だった。
「じゃあ折角だから蕾が開花していく様も見ていきなさい。滅多に見れるものじゃないのよ。アイネの実の開花なんて」
「たしかに見たいな。開花まで後十日弱だよね?」
「そうねぇ。たぶん九日後だと思う。もう今日も夕方だけど」
「収穫は」
「開花の当日でいい。果実をもぐ要領で摘んじゃえばいいの。見た目程固くないとはいえそうそう傷が入る素材でもないから手袋とかも必要ない。専用の保管ケースは後で見せるわ」
「へぇ」と感嘆の声が思わず漏れた。
「石……宝石でさえも傷がつかないようにって扱うのに」
「植物の実が不思議よね。……旅立つのは?」
「急ぎだけど、収穫したらすぐにでも出発したい」
「わかったわ」
口元を手で覆い僕は続く言葉を飲み込んだ。
つまり。僕がここにいるのは後十日もないのだ。わかり切っていたけども。
「ということはその足で連中にアイネの実を渡すの?」
「予定ではオルナ町内の喫茶店で」
「町の喫茶店を闇取引の現場にしないでよね」
「普通の場所で行なった方が僕の身は安全だから許してよ」
「やっぱり付いて行こうかしら」と呆れた顔をするエレノアに僕はわざとらしく頭を下げる。
こうして僕のその後の方針は決定したのだった。
それからの毎日は穏やかでそして相変わらず二人だけだと言うのに賑やかだった。
“いつものように”畑仕事をして、オルナ町に行き、家事を分担した。
エレノアが研究室に籠っている間にオルナ町に一人で出歩いて、連中と無言のコンタクトを取ったりもした。旅立つ準備だけはもう問題ない。
家鳴りは相変わらずする。タネがわかってしまった今ではもう馴染みのある同居人みたいに感じられ苦笑する。こんなものに怖がっていたなんて!
エレノアは何も変わらないようで、少しだけ寂しそうに笑うことが増えた。こんな場所に住んでいる割に本当は寂しがり屋なのかもしれないと感じたが、僕からその感情に触れるのは止めた。ここから去る僕には何かを言う資格はないだろうから。
そうして遂に。
「明日開花でしょうね」
八日後。エレノアは腕を組みうんうんと唸った。
「うん……」
「フィンレー?」
「感慨深くてさ」
アイネの花の蕾は相変わらず僕の頭部と同じ大きさでその存在を主張していた。内部の“実”が魔力を溜め込み輝いているようで、ぴったりと閉ざされた蕾は赤い電球のように光を放っている。
「珍しいわ。アイネの花がどれも全部枯れずに育つなんて」
エレノアが頬に手を添え感嘆の声を上げる。うっとりと細められた金色の瞳が三つの赤を映しアイネの蕾に勝るとも劣らず輝いていた。
「もしかして僕って運が良い?」
「嘘でも私の腕が良いって言いなさいよ。……まあ、本当に運が良かったのだと思う。途中で枯れてしまうと思ってたから」
僕達がアイネの実と呼んでいるものは正確には一般的な植物の果実や種子に該当しない。魔力を溜め込んだアイネから滲み出た魔力を帯びた水分が花弁中央から吐き出され固まったものらしい。
初めにそれを知った時は汚い話だが排泄物みたいだと、眉間に皺を寄せてしまったのを覚えている。宝石よりも輝き、そして魔力を帯びている奇跡の実。その実態は植物が不要だと認識して──植物に意識があるか僕はわからないけども──排出した塊。このギャップを埋めるのに時間がかかったのは言うまでもない。
「大きな蕾なのに実は小さいんだ」
「小さいだけなら御の字よ。開花してみたら実なんてなかった、その可能性もあるわ」
「こんなに光っているのに?」
首を素早く捻りエレノアの方を向けば、眉を上下させていた。
「水遣りした後だからね。反応して光っているだけよ。だから開花してからのお楽しみ……ところで実が成ってなかったらどうするの?」
「その証拠だけ提出すればいいことになってる。写真、撮らせてもらっていい?」
「どうぞ」
つまりはアイネの実について連中は僕に然程期待していないのだろう。全力を尽くせばいい、だなんて生温い考えで許されるのだから。
「エレノアってさ」
前に聞いたことあるけど、と続けた。
「頭部くらいのアイネの実の育成に成功したのは本当にないの?」
エレノアが魔物を飼っている。そう信じ込んでいた時に過ぎった考えだった。魔物をこの森で飼うなら大きなアイネの実を所持しているはず、あの時はそう考え家中を探したものだ。
「それができていれば薬局なんてやってないで遊んで暮らしているわ」
「……だよね」
あっさり否定され、苦笑いを浮かべる。これで全ての疑問は解消できたはずだ。一つを残して。
「そういえば」
最後の心残りを解消すべく僕は口を開く。余計な一言だろう。でもどうしても彼女にこの問いを投げ掛けてみたかった。
「“アイネの実と冒険者”の伝承、知ってる?」
「そりゃ知ってるわよ。今では絵本が有名よね」
「うん、それ。昔は本当の歴史だと信じられていた御伽噺。何にもできなかった一人の人間が冒険者になって世界を巡って手に入れたアイネの実で魔物を操る存在、魔王を封印し祝福され姫と結婚し生涯幸せに暮らす。そんなハッピーエンドだね」
「如何にも、って感じよね」
「嫌い?」
僕が尋ねればエレノアは困ったように笑っていた。
「一昔前……まあ、実際遠い昔に作られたものだから価値観の差は感じるわね。嫌いではない……かな。ただちょっと思うところがあるだけ。小さい頃に読んだ、って以外に」
温かい風が僕の頬を撫で、心臓が跳ねた。
「それ、聞いても?」
「内緒にさせて」
エレノアは眉を下げたまま顔の前で手を振っている。これは問い詰めても教えてくれないだろう。
「僕は好きだな。大好き」
「あら。じゃあ、本棚に置いといた方が良かったかしら」
リビングにある大きな本棚を頭に浮かべる。あの本棚には古今東西様々な本が置かれていて、高度な専門書の隣に児童に読み聞かせるような絵本が並べてあり驚いた記憶があった。結局全部読んでしまったけれど。
「ううん。大丈夫。何度も暗唱できるくらい小さい頃に読んだ」
「それは作者は大喜びなんじゃないかしら」
今度はふにゃりと微笑んでみせる。これで本当に思い残すことはない。
「エレノア」
「なあに」
「今までありがとう……ございました」
深々と頭を下げる。視線の先でエレノアの爪先が半歩後退りをした。
「嘘を見抜いてくれて、それでも僕を雇って」
「待って! 待て待て。そういうのは無しにしましょう!」
両肩を掴まれ押し戻される。爪先立ちをしながらエレノアが困ったように笑っていた。
「サラッと別れて身の安全が確保できそうなら恩返しに来てくれればいいのよ。……また会えたら会いましょう」
「恩返しって自分で言うんだ」
「ないよりかはある方が嬉しいでしょう?」
エレノアがいけしゃあしゃあと言ってのける。過剰なまでの献身と見え隠れする傲慢さが彼女を構成していると、ようやく理解した。
夕飯もいつもどおりだった。僕を送り出すための特別なものではなく、いつもどおりのメニューだ。鶏肉のソテーにサラダ、昨日のポトフの残りにミルクブレッド。後はダーンエイティーを飲みながらテレビをぼんやり眺め、画面に向かってポツリと言葉を投げかけるエレノアの隣でクッキーを齧っていた。
一カ月分の給金が入った封筒を彼女から渡される。想像したよりも重いそれに僕はつき返そうとしたが、エレノアは悪戯っぽく笑って「臨時手当を加算しておいたわ」とだけ言った。
風呂に入り、歯を磨く。歯ブラシ等の日用品や下着は僕が持っていくことになっている。貰ったビニール袋に詰め込んで、階段をエレノアと上った。
「それじゃあ、明日は朝七時半に集合。忘れ物のないように今日中に部屋の荷物もまとめちゃってね。あっても一週間しか保管しないから」
「大丈夫。もう粗方でき上がっているよ」
痕跡を消すように、僕は部屋の荷物を既にまとめていた。このビニール袋の中のものさえしまってしまえば、僕がいた形跡はこの家から失われる。
「ハムサンドを冷蔵庫に作り置きしておいたから、起きたら食べちゃって。私はケースを持って温室前で待ってるから」
「エレノアは何時くらいに起きるの?」
「六時くらいよ。……ああ、心配しないで。準備に然程時間はかからないから寝てて」
「甘えさせてもらうよ」
ドアノブを握りしめる。明日、アイネの実を収穫したらそのまま僕は森の外までエレノアに送られオルナ町に行く予定となっていた。ゆっくり会話できるのは今が最後なんだろう。
「エレノア」
首だけ振り返る。エレノアも向かいの自室のドアノブを握ったまま同じ格好をしていた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
それでも僕達はまるで明日以降もこの生活が続くように挨拶をした。断ち切るようにドアを開け、閉じる。
これでいい。
ビニール袋を放り投げてベッドへと身体を沈みこませる。目を閉じれば浮かぶのは一カ月余りの生活だった。首を振り、頭を掻き毟ってもエレノアと過ごした日々がいくつも過ぎっていく。
何も考えたくはない。今は。
僕は瞼に力を入れ、懇願するように歯を食いしばる。触れてはいけない感情を抑えつけて睡眠という静寂が訪れるのだけを只々待っている。
最後の夜はそうやって更けていった。




