蒼の森での一幕
「はあ、ようやく日常が戻ってきたなあ」
「そうですね。これでやっと全部いつも通りですね」
「全くだわい。いやあ、それにしても本当にお疲れ様な毎日だったのう」
ベラにブラシをかけてあげていたニコスが最初に大きなため息と共にそう呟き、隣でポリーとヤンにブラシをかけてあげていたタキスとギードもその声に苦笑いしつつそう言って頷き合い、揃ってため息を吐いてよく晴れた空を見上げたのだった。
レイ達が竜に乗ってオルダムへと帰って行った後、早速撤収作業を始めた執事達を見て手伝おうとしては断られ、結局右往左往するだけでなんの役にも立たなかったタキスとギードとは違い、ニコスは当然のようにそれを手伝い、最初にブレンウッドの街へと帰っていくシルカー伯爵と護衛の者達を見送ったのだった。
その後に、ほぼ半分ほどの執事達が何台もの荷車と共に街へ戻っていき、そして昨日、最後まで残って片付けをしていた執事達と料理人達も全ての撤収作業を終えて、残りの大荷物と共に街へと戻っていき、蒼の森の石の家はようやくいつもの顔ぶれとシヴァ将軍をはじめとするロディナの人達だけの、静かで平和な日常を迎えられたのだった。
とはいえ、ニコスには改めてシルカー伯爵だけでなく、手配の際にお世話になったシヴァ将軍の弟君にもお礼状を書く仕事が残っているのだが、まあそれは、ニコスにしてみれば久しぶりではあるもののすぐに終わる程度の簡単な作業だ。
「本当にお疲れ様でしたね。いやあ、それにしてもこの数日は、やろうと思っても絶対に出来ないような貴重な体験を、色々とさせていただきましたよ」
ギードの隣に並んでオットーにブラシをかけてあげていたアンフィーは、遠慮なく大笑いしながらそう言って肩をすくめている。
「お前さんはここでの出来事だけでそんなに笑っとるが、我らはオルダムで、いや、ここを出発してからオルダムへ行く道中から、そもそもずっと大変続きだったんだからな!」
ようやく落ち着いて話が出来るようになった嬉しさと勢いもあって、ギードがそう言ってアンフィーの腕をバンバンと叩く。
「そうそう、それそれ! 皆さんが出発した後にシヴァ将軍閣下から聞きましたよ。街の宿屋ではなく貴族御用達の宿に、しかも特別な賓客扱いだったんですって? 冗談抜きで、本物のびらびらの付いたベッドで寝たんでしょう? 寝心地はどうでしたか?」
そう言って大笑いしているアンフィーが、タキス達に向かって小さなカードの形を指で作って見せる。
それを見たタキスとギードが揃って顔を覆って悲鳴を上げ、ニコスは堪えきれずに大きく吹き出す。
「いやあ、叶うなら一緒に行ってみたかったと割と本気で思いましたよ」
また笑いながらアンフィーがそう言ってブラシをカゴに戻し、爪専用の小さな硬い金属製のブラシを手にしてオットーの脚元に屈んで爪の手入れを始めた。
「よし! 言質を取ったぞ!」
「確かに今、自分で言ったな! じゃあ次はこいつも一緒だ!」
顔を見合わせたタキスとギードが、にんまりと笑いながら小さな声でそう言って頷き合う。
「ん? どうしました?」
「いや、なんでもない。ほら、子供らもおいで。ブラシをしてやるぞ」
素知らぬ顔でそう言ったギードが、草原を走り回っていたシャーリーとヘミングに向かってブラシを振り上げて見せる。
ギードの呼びかけに嬉しそうに鳴き声を上げたシャーリーが、嬉々として駆け寄ってきてギードにぶつかるようにして止まり、そのままギードの腕を甘噛みした。
「こら! 其方らの牙は鋭いからそんなに強く噛んではならぬぞ。離しなさい!」
しかしちょっと勢いがつきすぎたらしく、シャーリーの鋭い歯がギードの服に食い込んでいる。
慌てたように大きな声でそう言ったギードが、顔をしかめて痛みを堪えながら噛まれた腕をそのままグッとシャーリーの口元へ押し込む。
「ウニュウ!」
突然、腕を口に押し込まれて嫌そうに声を上げたシャーリーがすぐに口を離す。
少し遅れて走ってきたヘミングは、その様子を見て彼らの少し手前で慌てて足を止める。
「ギード! 大丈夫ですか!」
驚いてそう叫んだアンフィーが逃げようとしたシャーリーに素早く腕を伸ばして、即座にその口を両手で上下から押さえ込むようにして捕まえる。
「人を噛んでは駄目だ! 駄目だ! 駄目だ! 駄目なんだぞ!」
そのままアンフィーは滅多にないくらいの大きな声で、しかもとても怒った声で何度もそう言い、シャーリーの口を掴んで押さえつけたまま顔を寄せて、上から覗き込むようにして叱った。
これは、ようやく言葉が少し通じるようになってきた子竜達に絶対にやらなければいけない躾の一つで、まず絶対に、人の体を力を入れて噛まないように教えなければならないのだ。
特に、今のように甘噛みを失敗した時などにはこうやって強く叱り、これは絶対にやってはいけない事なんだと認識させる必要がある。
ベラやポリー達でもする甘噛みは、人に甘える故の行為なのである程度は認めているが、鋭い牙を持つラプトルが本気で人を噛めばどうなるかは明白だから、噛む際の力加減は絶対に教えないといけない事の代表なのだ。
「キュゥ」
まるでごめんなさい、と言わんばかりに小さく鳴いたシャーリーを見て、アンフィーがわざとらしく大きなため息を吐いてから頷いて手を離して、頭を何度も撫でてやる。
「分かったならよろしい」
「クキュゥ」
もう一度小さく鳴いたシャーリーは、そのまま誤魔化すようにギードとアンフィーに鼻先を順に擦り付ける。それから、遠慮がちに少しだけギードの腕を甘噛みした。
「よしよし、分かればいいんだ。ほら、では良い子にブラシをしてやろうな」
その様子を見ていたギードが苦笑いしつつそう言ってシャーリーを捕まえてから改めて何度も撫でてやり、自分の前に立たせてゆっくりとブラシをかけ始めた。
春のこの時期は、秋と並んで鱗の生え替わる大事な時期なのだ。
その為、特に成長が著しい子供達は鱗の剥がれるのが親のラプトル達よりも早く、大抵は常に体のどこかの鱗が剥がれていて痒いらしい。
ブラシは体に残った古い鱗を剥がしてやる意味もあって大事な習慣なのだ。
ようやくブラシを嫌がらなくなった子竜達の気持ちよさそうな様子を見て、ギードも嬉しそうに笑うとまだ小さな体全体に丁寧にブラシをかけてやったのだった。




