第53話 その盤に英雄を載せて
「……未来を視なくていいの? ヴェイル」
「ルアハ。君の力はこんな自明なことに使わなくていい」
「自明って、君……」
「——『凝り固まった思想を甘受してる場合じゃない』、おまえもだ」
それは出発前、イェスタ自身がヴェイルに言ったことだった。イェスタは瞬きをして、ヴェイルを見つめた。
「この計画が成功するかは、追跡者が悪魔に勝てるかどうかにかかってる。……おまえ、追跡者になるつもりだろ」
「! お見通しか……」
「——それで、負けるつもりなのか?」
「まさか。だが、この影響は世界中に出るわけで……」
まったく、自分にばかり厳しい奴だ。ヴェイルはため息を吐いた。
「だけど、変えるためにここに来たんだろ? おまえたちのやりたいことが何かくらい分かる」
視線を逸らして奥を見る。光の気配を纏う祭壇は、今は天界に不在のキレト神を讃えている。神か、そいつは本当にあてにならない、とヴェイルは思った。
「元々、このイシャナのやり方だって、人間が了承したことじゃない」
「……頭では分かってるの、始まらない賭けでは何も得られないってこと。——やっぱり間違ってるわ、天使と悪魔の争いのために人間が戦うなんて……」
「そうだな——」
確かにこの世界には歪みがある。
でも。
希望はある。
最悪の日々に安寧の夜をくれて、天使ウルドさえ諦めたどうしようもない男を救いに来てくれた。
薄汚い鼠を拾い上げて親友だと言い、真っ当に生きていいと手を伸ばしてくれた。
それだけで十分だった。ヴェイルは、彼らが遥か遠くにいる神なんかよりもよほど眩しいことを知っている。
「——もし、その上おまえたちの正義が通じないような世界なら、はじめからクソ食らえだな」
たとえその光がこの世界に陰を生んだとしても、そこでは必ず夜が明けるだろう。
ずっとその光を追いかけていた。でも追いつける気がしなくて、追いかけているということに満足していた……その諸刃の覚悟はヴェイル自身を縛り、立ち上がろうとした少女を狂わせ、イェスタに無力感のみを与えた。本当はルアハと一緒に隠れてただ逃げてしまいたい——そんな気持ちのまま、罹患者を救いたがる彼女の願いを叶えたつもりになっていた「過去の未来」の因果だ。
しかし今、ヴェイルは、ルアハとイェスタと同じ側に立っている。二人の一歩後ろで、その背中を押し、追従できる場所にいる。
……認めよう。ヴェイルは泥沼に甘んじていた。最初から二人に憧れていたのだ。
ノーマの過ちはヴェイルからの連鎖だった。彼女にとってはヴェイルに恐光症を治す力があるということだけが希望で、それで十分だった。だがヴェイルが彼女を正しく導かなかったために、彼女は路頭に迷うことになった。
ルアハの契約者には彼女の力が備わり、力には責任が伴う。ヴェイルに必要なのは障害を薙ぎ払う覚悟ではなく、彼女の隣に立つ覚悟だ。
「おまえたちの正義がこの世界に通じるってことを——、僕がここにいるのは間違いじゃないってことを、信じて証明してみたい」
「ヴェイル——」
「……彼は心を決めているようだが」
イシャナの問いに、イェスタは少し沈黙を挟む。ヴェイルを見ていた視線をゆっくりと彼女の方に戻して、一息ついて、それから彼は頷いた。
「ああ、俺も決心がついた。——他の追跡者だって、できることなら殺すためじゃなくて救うために戦いたいはずだ。その意志と新しい力があれば、きっと悲劇を終わらせられる。俺は信じようと思う、追跡者の心を」
「この取引が成立すれば、私たちはこの世界に厄災を呼んだ悪役になるわ、それでも——理不尽な制裁の綻びに怯えてこれから生きていくなんてできない。力を得て打ち克つ、その可能性を信じないわけにはいかないわ」
イェスタは姿勢を正して続ける。
「……イシャナ様——これまでの貴方の守護に敬意を表します。私たち三人分の覚悟が、方法は違えど貴方の意志を引き継ぎ、人とこの世界をよりよい方向へ導くことを……ここに誓います。どうか、我々に証明するチャンスをください」
イシャナは僅かに目を瞠った。それからほんの少しだけ頬を緩めて、静かに囁く。
「——未だ綻びは浅く、ボクが観測した時間は短けれども、ウルドに掻き回された君達がこの結論に辿り着いたことには大いなる意味があるのだろう」
ウルドが繰り返した時間を、彼女も意識している。ウルドの迷走もまた無駄ではなかった。
同じ人間でありながら光と闇の概念によって隔絶される痛みが「今回」のイェスタとヴェイルの悲劇で終わるのなら、それは今この瞬間、この四者が円卓につくための対価だったのかもしれない。この場が成立しているのは奇跡だ。ウルドの沈黙がそれを示していた。
「君達を信じよう。汝らに、主の眼差しが注がれんことを」




