第52話 ——天秤の主よ、
「堕天した天使が天使に戻ることはない——これは嘘ではない。そのように、悪魔の宿主となった人間が悪魔の支配から解放されることはできないと、そう追跡者に教えたのはボクだ」
「‼︎」
「各地の追跡者に“天眼”を開き、覚醒者と呼ばせ人間にこの思想を浸透させることで、ボク以外の天使があまり手を貸さなくとも、恐光症の被害はかなり少ない状態に収まるようになった。おかげでウルドや他の天使が天界の戦いに集中することができ、オラジンの第一の企みは抑止に至った」
つまり、この世界に割けるリソースはないと——イシャナはそう言っているのだ。
「その、オラジンの企みというのは何なんだ? オラジンも天使なんだろ?」
「それは言えない。……だがよく覚えておけ、本当にこの世界を裏切っているのはオラジンであると」
天使同士で争って、悪魔に侵されている人間を助けないなんて——。ルアハの批難の言葉は、カタンと動いた天秤の上方で止まって、そして既に摘み捨てられた儚い希望なのだった。
「——ただし、ボクにとって予想外のことが起きたのは事実だ」
イシャナはそう言って、再びルアハを見る。
「空席だったはずの『予言』の天使の発見に始まり、貴様を過去まで、そして降臨してまで拾いに行ったウルドの選択……。どうやら貴様らは、次のオラジンとの戦いにおいて重要な役割を果たすらしい」
「……!」
ルアハの腕がぞくりと震えた。彼女は天界でオラジンと会ったことがある。それは、言い訳のしようのない明確な……恐怖だった。
「今回君はウルドともボクとも深く接したことになる、祝福はより多くのことを君に視せるだろう。その未来が視えた時、君が選択を誤らないことを祈る」
イシャナはそうルアハに釘を刺した。……あまりにも、知らないことが多過ぎる。だが少なくともイシャナの話は、ルアハに〈キレトの十指〉の一人としての自覚を迫るに足りた。
「さて、ウルドの信頼に応えて、ボクもウルドを信頼することにする。英雄クン、物事は全て天秤にかけられている——君がボクに提案を呑ませるのなら、ボクが罹患者を見捨てたように、今度は君が相応の代償を支払わなくてはならない」
「それは……俺の提案を拒否したわけではないっていうことだな?」
「肯定する」
緊張が走る。イェスタは険しい表情でイシャナを睨んでいた。
現状、世界は歪んでいて、変革を齎さなくてはならない。しかしそれは、歪みの位置を変えるだけのことなのかもしれない——。
「——天使とは、一種の精霊が変化した姿だ。天使か悪魔へと変貌する前の“魂”という精霊、それは立ち消える雲の粒子のように、強かな草の葉のように無数に存在する。だが振り分けが終わっても、個がはっきりするのは生前人間などの知能の高い動物であったごく一部、そして天使や悪魔と呼ばれる存在として確立するのは更に一握りだ。低い位階の天使には、天界に昇らないままこの世界を漂い、追跡者の呼び声に応じ力を貸す者もいる。その数は絶光領域から見つかる極光結晶の数によって概算できるだろう」
精霊、という言葉は聞いたことがある。ルアハが、自分はかつて“春風”の精霊だったと言っていた。
「ボクは霊界に干渉し、振り分け前の段階にある“魂”のほとんどを『統治』し、天界に取り入れて私兵として育てている。これによってオラジンを抑止すると同時に、新たな悪魔化した“魂”の数を徐々に減らし、地獄の悪魔にこの世界には未来がないと錯覚させているんだ」
「悪魔が統率を取って侵略して来ないのは、それが理由なのね……」
「故に不定期的な例外を除いて、この世界に現れる悪魔は地獄の社会で生き残れなかった弱者だ。そして、英雄クンが求める『恐光症を治す』力を持つのは、第七位階・権天使以上の天使のみ。もし英雄クンの提案の通りにするならば、ボクは自分の“天眼”を閉じる代わりに、この世界に権天使たちを派遣することになるということだが——」
追跡者の多くが力ある天使の契約者になれば、恐光症は「治すもの」へと変わっていくだろう。しかし、そこには代償が発生するのだ。
「そうすると、世界の光はただ光であるだけでなく、光の性質を帯び始めるようになる。それ自体は堕天使とその契約者にとって以外喜ばしいことだ。だが、それは悪魔たちに『天使がこの世界を征服しようとしている』予兆として伝わるだろう」
「つまり、……悪魔の動きもまた活発になるのか。目的が変われば、来る悪魔も強力になる……」
イェスタが苦々しく言う。それがイシャナの「統治」から人々を解放する代償だというのか、と。ヴェイルに操られていた間の記憶はないが、バティンが街に出した損害は自分の目で見た。罹患者は絶光領域に篭るものだという常識は通用せず、祝福を持つウルドを圧倒したその力は、厄災とすら言うべき脅威だ。
「この世界が光か闇に染まった時、天使と悪魔の均衡は崩壊し、勝者の側から新たな神が生まれる。悪魔は地獄で戦いに明け暮れ力をつけながら、虎視眈々とその座を狙っている」
「天使が先に征服してもいけないのか?」イェスタが訊ねる。
「英雄クン。キレト様は、『精霊と物質の次元』と『光と闇の次元』、表裏一体の世界を二つ分けて創られた……と考えてくれたまえ。キレト様の望みはそれぞれの存続であり、光の勝利ではない。二つの世界は隣り合って関連しているが、この世界は天使と悪魔の戦場でも砂場でもないんだ」
イシャナはそう言い切って、話し疲れたように一度、口を閉ざした。だがこれを伝えることが使命であるというように、再び言葉を発する。
「さあ、どうする。——悲劇の小さいことを選ぶか、悲劇の美しいことを選ぶかだ。君達に覚悟があるのなら、この世界の命運をその手に委ねよう」
この選択が、世界の運命を変える。もしかすると地獄の方へ。
恐光症の被害は拡大し、罹患者の社会復帰は結局叶わないかもしれない。
悪魔がこの世界を征服し、平和な世界は失われてしまうかもしれない。
「簡単な問題だな」
ヴェイルはそう言った。イェスタが視線を寄越す。彼は相当頭を悩ませているようだった。




