第49話 一人では辿れない道
「ねえヴェイル、本当に帰らないの?」
ルアハはそう残念そうに言う。ヴェイルはマックスウェル家で支給された服に着いていたカフスなどの装飾品を売り払い、どこにでもいそうな青年の格好をして、目立つ眼帯は外し、代わりに前髪を押さえつけて帽子を被っていた。
イェスタに命を救われてから、季節が一周していた。夏の空気がルアハの白い服に反射している。
一夜の潜伏を経て、ヴェイルは早々にスフェーンを離れることにした。ルアハはヴェイルの中にいるが、ウルドに操られていたイェスタとは違って、当然行動の決定権はヴェイルにあった。
「ああ、イェスタには悪いけど……僕はこの世で一番、あの伯爵が怖いんだ」
「もう、また弱気になって」
「——あの人はイェスタを思い通りに育てようとしてる。なのに僕と関わる時のイェスタは毎回その期待を裏切るんだ。もし罹患者の社会復帰が許されてても、あの家には帰れないよ」
何が嫌って、伯爵の言葉は昔受けてきた暴力とは違って理不尽ではないところだ。
確かにイェスタ・マックスウェルという人物の輝かしい経歴と未来が損われるのは国の損失である。彼に命を救われたからこそ、同じ地獄行きを覚悟した彼の姿を見てしまったからこそ——ヴェイルはそれをよく理解していた。正確に言うとヴェイルにとって国などというものは大きすぎて想像もできないものだが、国のために働いている伯爵がそう言っていたから多分そうなんだろうと思う。
「それを言うなら、私だってあなたの運命を散々捻じ曲げたわ」
「僕の元々の運命なんてクソだよ、ルアハ」
「ちょっとヴェイル、そんな言葉使わないのよ!」
「……本来そういう育ちだってことだ」
——「今回」は、もうルアハには失望されるものだとばかり思っていたから、あの頃格好つけていた記憶と意識が大分抜けている。幻滅されたか、と思って薄目で隣を歩く(浮いているが)彼女の表情を伺うと、彼女は口では怒りながらも、随分と暖かい視線でヴェイルを見ていた。
「……ヴェイル」
「——何?」
道行く人々は、ヴェイルがまさか心の中で堕天使と会話していることなんて想像すらせずに、一瞥もくれず通り過ぎていく。“第一の人生”で味わった惨めさとも、“第二の人生”でイェスタと歩いて知った注目される人間の感覚とも、……そして“第三の人生”の狭窄な視野、“第四の人生”の、何か見えないものに巻き込まれ続けるような感覚とも違う。「今回」の人生、ヴェイルはひたすら陰で縮こまっていた。
「本当に〈マグニスの絶光領域〉に行くの?」
ルアハが問う。マグニスよりもヴェイルを心配しているらしい。かつては「悪魔を捕らえてきて」と言い、その後も罹患者を治療するために奔走していたあのルアハが。
「バティンの力は、早々使い果たすことなんてないわよ。……あなたが何を見て、今何を考えてるのか分からないけど、少なくとも『今回』のあなただってずっと一人で苦しんでたんだから、もっと休んでもいいのよ?」
「…………」
ヴェイルはばつが悪くて黙った。彼女はこう言いつつ、ヴェイルに頼らず自分で動けるのなら今すぐに絶光領域を探し回って悪魔と戦うだろう。彼女の信じる正義のために。
それよりも優先されている——ヴェイルは独占欲が満たされるような気がして、しかし虚ろな己の心に困惑した。
「けど、他にしたいことなんてないし……」
ウルドに過去の未来を見せられて、自分だけではルアハを正しく導けないことを突きつけられても、ヴェイルにはがむしゃらに戦うことしか思いつくことができなかった。
ルアハに別れを告げることができたら、どんなにいいだろう。彼女はヴェイルの安寧の地、“永遠の春”のオブジェクトではなく、世界のために戦う本物の天使だ。それとヴェイルの人生では全く釣り合わない。
「私にはあるわ」
だがルアハが拗ねたようにそう言ってツンと前を向くので、ヴェイルは「えっ」と思わず口に出してしまった。
——何だ? 僕は何を見落としてる?
「……おっ、よかった、やっぱりヴィーだ!」
「っ!」
突然知っている声の主に呼びかけられて、ヴェイルは肩を跳ねさせた。振り返ると、イェスタが悪気なさそうにヒラヒラと手を振っている。
「お……まえ、こんな往来で声をかけるな!」
小声で文句を言うヴェイルに、イェスタは苦笑して道の端に寄る。その後ろには、走るイェスタを追いかけてヘトヘトになったテオバルトという懐かしささえ感じる光景がある。
「ごめんごめん、でも、別に指名手配されてるわけでもなし」
「……されてないのか?」
「そう。止めてもらった」
「そんな……僕の苦労は何だったんだ。というか、おまえ、怪我は大丈夫か」
「そうそう、不思議とな。ヴィーも……元気そうだ」
イェスタは得意げにそう言うが、その控えめな笑みはヴェイルに対する罪悪感を孕んでいて、彼が本物のイェスタであることが分かった。
「ぼ、坊ちゃん……勘弁してください……っていうかヴェイル、きみ、本当に何ともなさそうじゃないか……。みんな心配してたんだからな、きみのこと!」
「…………」
「みんなでずっと探してたんだ。いやあ、もうスフェーンを離れたかと思って焦ったなあ、そんなにうまく変装してるなら見落としてたかも。——今はルアハちゃんと話してただろ? 俺にはもう見えないけどさ……」
手を添えてコソッと指摘される。ルアハに反応してしまったことが、イェスタにヴェイルであることを確信させたようだ……。今後は気をつけよう。
「……何なんだ、一体」
「俺がヴィーに話があって。……もちろん、謝りたいのもそうなんだが」
「マックスウェル家になら戻らないぞ。おまえが悪いんじゃないけど……」
「それは分かってる、……寂しいがな」
イェスタはしゅんと眉尻を下げて、一呼吸置いた。
「……あの時ウルドが俺の体を使って戦ってるのを見られてたから、追跡者に『覚醒者』だと思われててな、ダロンにいる『覚醒者』が招待してくれているらしい」
「覚醒者……?」
「きっと、天使の契約者か“天眼”の持ち主って意味ね。今、この世界にはそれぞれどのくらいいるのかしら……」
「おまえ、それに行くのか」
「ああ、恐光症の問題に踏み込むいい機会だ」
「深入りするつもりなのか? 伯爵が黙ってないだろ」
「何で父さんが反対してるって分かるんだよ? ……まあそのことはいいんだ、俺は別に父さんの言いなりになる気はないからな。——それで、ヴィーも一緒に招待されてるんだが」
「はあ?」
ヴェイルは自分ができる限りの遺憾の顔をした。一種の罹患者であるヴェイルにとって、追跡者は天敵だ。いくらルアハが強いと言っても、狙われるのはいい気がしない。なぜならそれは、ルアハを悪の存在だと決めつけてヴェイルから永遠に引き剥がそうとすることだからだ。
もし別れを告げる必要があるなら、自分から……。
「そう思うのは分かる! だが、悪い話じゃないと思うんだ。俺はこの問題をちゃんと前に進めたい」
イェスタはそう言って、話を聞いてくれとばかりにヴェイルの手首を掴んだ。その力加減は強過ぎず弱過ぎず、けれども抵抗したらしっかり捕まえられそうな感じだったので、ヴェイルは大人しく捕まっておくことにした。
ウルドに取り憑かれていた時のイェスタは容赦がなくて、伯爵と同じくらい恐ろしかったが、素のイェスタはちゃんと思慮深い……はずだ。少なくとも、こんな真摯な顔で人を騙そうとはしないだろう……と思いたい。
「——恐光症は世界中で発生しているものだ。そして世界中で、追跡者には罹患者を迷わず斬る思想が徹底されている。この現状を変えるにはまず、恐光症が治療できることを『覚醒者』に知ってもらう必要がある」
「…………」
「俺はもう本物の『覚醒者』じゃない。今確実に罹患者の治療を実践できるのは君しかいないんだ、ヴィー。そして……一度闇に侵された人間がちゃんと精神を立て直せるっていうことを示せるのも」
その顔に向けられた軽蔑の視線の記憶が蘇る。
一度堕ちれば戻ってはこれない——それは、ある意味や場合では間違っていないと思う。ヴェイルは自分のことを、かなりそれに当てはまると思っていた。妄信のままにイェスタの厚意を踏み躙った。マックスウェル家に顔向けできない。
だがそれはヴェイル自身の行動への自責であって、ルアハをこの身に宿していることが悪であると考えているわけではない。
「恐光症は病気なんだよ——免疫力が下がったところに悪魔が付け入るんだ。その症状や罹患してしまうこと自体が罪になるのはおかしい。原因を断ち、治療法を確立するべきだ。凝り固まった思想を甘受してる場合じゃない、君もだ!」
「!」
イェスタの手に力がこもる。
「ウルドは何度も世界をやり直していたらしいな。これまでの世界がどうだったのか知らないが——今回君が苦しんだこと、無駄にはしない」
ヴェイルにとって、人目を忍んで陰で生きるのは慣れたことだ。
もちろん、ルアハがいてくれる間はそれなりの暮らしをしたいとは思う。だが決して多くは望まない。そうやって逃げるように生きることを——どうやら彼は許してくれないらしい。
「……はっ……おまえはいつも強引だな」
「! ヴィー……」
笑うと、イェスタは不安そうに眉を顰める。しかしその心配は不要だ。
「——いいよ、行こうか」
今度はするりと簡単に腕が解けて、ヴェイルは再び乗合馬車を目指して歩き出した。ザロントではなく、ダロンへの道を思い描きながら……。




