第35話 汝には栄光を
ドク、と心臓の辺りが嫌な感じに跳ねた。
ヴェイルが息を呑み、目を見開いている。
あれ? これは夢なんだよな? どうして——こんなに胸が痛いんだ?
「俺も君が術を成功させるまでは、親友でいよう。俺だって君を利用させてもらっている身だからな」
「イェスタ……」
「どうしてそんな顔するんだよ」
イェスタは嘲笑混じりに言う。その声は自分で聞いていても明るかったが、全くヴェイルに寄り添ってはいなかった。イェスタは、あり得ないこの光景をどこか遠くから眺めているような気分だった。
「——君を助けた俺よりも彼女を選んだのは君自身だろ? つくづく救えないな。それが何を意味するかを知っているのに、お互いの幸せを手にしようって提案してやってるんだぜ、俺は」
「……悪い、」
俯いたヴェイルの声が震えて、彼はそれを隠すように語尾を窄めた。
「謝らなくていい。あの時諦めるって言ってくれたのに、彼女のためによりにもよって悪しき術に手を出した——その時点で、君のことは心底軽蔑している。だからこの最悪な手段を使ったとして、もう何も変わらない」
「そうだな……」
「今の君を見て、彼女がどう思うかな。……はは、まあ試してみるといい。君の生き甲斐はそれだけなんだからな」
俺は一体何を言ってるんだ!
イェスタは最後までヴェイルを強烈に蔑んで、ガセボから離れた。
分からない——夢だとしても、どうしてこんな夢を見るんだ?
今すぐヴェイルに駆け寄って謝りたい。そんな顔をさせる悩み事が何か聞いて、大丈夫だと背中を摩ってやりたい。
「——優しいのは美徳だけど、救えない相手はちゃんと見分けられるようにならないとね。坊や」
……誰の声だ⁉︎ 聞いたことのない女の声がどこかから降ってきて、イェスタは驚いたリアクションをとったつもりだったが、体は相変わらずスタスタとただ歩いていた。
「私が誰かって? 〈キレトの十指〉が一人、ウルドよ。ごめんなさいね、この体はこれからしばらく私が借り受けるわ」
体を借り受ける。——その言葉を聞いて、イェスタの脳内にはこれまでのことがフラッシュバックした。これまでも、体が勝手に動くような感覚があったことは数回あった——「見たい夢を見る方法」の件、聖寵感謝祭の朝。それから……その時何があったのか覚えてないんだよな、とヴェイルに打ち明けようとした時。
これは夢じゃない。そして今、イェスタはヴェイルに酷い暴言を浴びせた——。
なんて事してくれたんだッ‼︎ と喚くイェスタに、彼女は微かに笑う。自室に入って、鏡面に自分の顔が写った。不敵なその両眼の虹彩の中に円の模様が浮かび、光っている。
「すぐに分かるわ。あの男がいかに堕ちきっているか。そして、あんたの進むべき道が」
同時に、机が視界に入る——ヴェイルが聖寵祭の時にくれたのは、上質な手帳だった。「長期間使うものはもう良いものを揃えてらっしゃるだろうから」と流暢になった敬語で皮肉りながらくれたものだが、イェスタは長く使う気満々で、重要なことの覚書になっている。
ウルドはそれを気にも留めず、雑に畳んでしまう。
「あんたがあの男から手を引けないのは、目を離した瞬間にあの男が堕ちていくことを心底理解しているからでしょう。だというのにあの恩知らずはそうでなくても、自分であんたから離れていって、勝手に堕ちていく」
デタラメを言うな。
「デタラメじゃないわよ。今回、今日、この時に辿り着くまで、私がどれだけあんた達を見てきたと思ってるの? 『予言』のせいであんたの運命は絡まって、あの男に囚われることになった。——イェスタ・マックスウェル、あんたは英雄になるべき人間よ。こんなところで立ち止まってるわけにはいかないの、あんたも、私も」
英雄?
「まあ、見てなさい。運命をあるべきように描き直しましょう——彼には破滅を、汝には栄光を。今度こそ……」
彼女がそう言って、目に浮かび上がった模様が消えた。
それは、完全に肉体の所有者が入れ替わったことを意味していた。




