第32話 さあ、素晴らしき人生
目という繊細な部位にグロテスクな傷を負った少年は、栄養失調や病気で弱った体が更に血を多く失ったことで、イェスタがその体を支えるとすぐに気絶してしまった。
人の死は、——あのまま助からなかった場合に訪れるものだと、イェスタは理解した。
その後も彼を救うことに躍起になったのは、それが怖かったからかもしれない。自分は彼を死の運命から救いきったのだ、と安心するために、見えるところにいてほしかった。何故か……気を抜くと、彼と出会うことができなかった世界線に現実がすり替わってしまうような感じがして。
「イェスタ……様、」
ぼさぼさだった黒髪を整え傷を眼帯で隠し、キッチリと使用人の服を着たヴェイルが拙く淹れた茶を出しながらそう言うので、イェスタは目敏く声を上げる。
「あ! ヴィーに様付けしろって言ったの誰だよ? ヴィーはおれの友達だって言ってるのに」
「ですが坊ちゃん、それでは示しが……」
テオバルトは比較的イェスタに親身だが、それでもヴェイルには厳しいらしい。
「もう、分かった分かった、人がいないところだったらいいんだろ? ほらヴィー、向こうで遊ぼうぜっ」
「坊ちゃん!」
「だめだイェスタ、伯爵に叱られる」
ヴェイルの腕を引いて逃げ出そうとするイェスタを止めたのは、テオバルトではなくヴェイル本人だった。テオバルトがいくら敬語を要求しようが、ヴェイルはそもそも敬語表現を知らないので、今のところはいくつかの定型文以外は喋れないのがオチだった。
「父さん? 何で?」
「そりゃそうだよ」
「何でだよー」
本当は分かっていたが、イェスタは拗ねていたので分からないふりをした。テオバルトは疲れたため息を吐いて頭を押さえて、ヴェイルを諭す。
「ヴェイル、きみは幸運な奴だ。だから、その幸運の埋め合わせをするつもりで立派になるんだぞ。そうすれば自然と、坊ちゃんの側でお仕えできるようになる」
「……ハイ」
「あーあ、ヴィーがおれの弟だったらいいのに」
「坊ちゃんには、既にお兄様とお姉様がおられるでしょう」
「あの二人は滅多に帰ってこないし、喋っても面白くないだろ?」
この頃、イェスタはまるで十歳くらいの子供に戻ったような気分だった。実際、十歳のイェスタはもっとしっかりしていたのだが……。
とにかく、二人は親友だった。
◇
——スフェーンにしては記録的な豪雪の日だった。外に出る予定もなく、イェスタはぼうっと窓の外を眺めていた。
「窓越しの雪は綺麗だな」
同じ部屋で本を読んでいたヴェイルが、ふと顔を上げるとそう呟いた。視線をやると、彼は半年ですっかり着こなした服で暖を取りながら普通に本のページを捲っているのだが、それがかつての彼にとっていかにあり得ないことか。
彼はまだまだ見習い使用人だが、みなイェスタに根負けして、ヴェイルがこうして友人のように振る舞うことを許すようになった。
「……ヴィー、今日は何を読んでるんだ?」
「最近流行ってるらしい呪いの本」
「流行り? 呪い? 珍しいこともあるもんだなあ。呪いたい相手でもいるのか?」
「いや、この本は僕でも普通に読めるし、子供向けで平和だ」
「どれどれ?」
気分転換に立ち上がって、彼の手元を覗き込む。……「見たい夢を見る方法」?
「君、こういうのに興味が——」
イェスタは揶揄おうとしたが、ヴェイルの横顔が纏う重たい雰囲気を見て、言葉が詰まった。
それはマックスウェル家に来たばかりの頃と同じだった。途端、イェスタの中で焦りのようなものが膨れ上がる。
環境を整えたところで傷ついた心まで救えるわけではない。だが、それが「寂しさ」の感情であることがイェスタには不満だった。イェスタはそれをヴェイルに消してもらった。なのに彼はまだそれで苦しんでいる。
「——夢で会いたい人でもいるのか? 母親……とか?」
「…………」
ヴェイルは昔のことを詳しく話さない。イェスタが知っているのは、両親はもういないし友達もいないということくらいだ。それ以外に話すようなことはない、らしい。
ヴェイルの反応は鈍く、母親に会いたいわけではなさそうだった。
「——なあヴェイル。俺も『見たい夢を見る方法』、知ってるんだが」
「え?」
ヴェイルは少しぽかんとしてイェスタの顔を見上げた。
「この本に書いてあるのは夜眠る前にすることだが、俺の方法は今すぐ試せる。どうだ?」
あれ? 俺は何を言ってるんだ?
そう思わなくもなかったが、体は勝手に動いたし、顔は勝手に笑っていた。ヴェイルは胡散臭そうに顔を顰めるが、そこは親友、一応付き合ってくれる気はあるようだった。
「ほら、力抜いて」
イェスタは背後に回ってヴェイルの手から本を奪って机に置き、肩を椅子の背もたれまで引っ張って彼の体を倒した。腕は肘置きへ。首を上向かせて、するりと眼帯を外して目を合わせる。
「イェスタ……? どうしたんだ、その目……」
「いいからいいから、その人のことを考えるんだ。会いたいだろ?」
「…………」
そう言うと、ヴェイルの視線がふっと意思を失ったように感じた。
ぼんやりと……ヴェイルの右目が、光り始める。
二人の意識はそこで、繋がった。
それは穏やかな風が吹く春の草原の風景だった。
彼女はそこに眠っている。この手で触れれば、一瞬にしてこの世界ごと彼女は消え去るだろう。だから、包み込んだ。
小さなその存在を丸呑みにする。あるべき場所に、あるべきものがあるように。
「……?」
一瞬、こちらまで意識がどこかに飛んでいた気がする。
イェスタが我に返ると、ヴェイルは目を見開いて、何かに縋り付くように手を上げていた。
涙が一筋その頬を伝った。イェスタはあまりの珍しいことにぎょっとして、「大丈夫?」と言いながらそれを拭ってやる。
ヴェイルは、小さく息を吐くと、だらりと脱力して俯いた。
「……ヴィー」
「——ありがとう、イェスタ」
「え?」
自分が何かしたか? まさかよく分からずに言った「見たい夢を見る方法」とやらが成功してしまったのか?
イェスタは困惑していたが、ヴェイルは何かすっきりしたようにまた長くため息を吐いた。そして聞いたことのない、本心からの微笑を乗せた声で言う。
「いつも見てた夢と同じ場所にいた。でも、彼女はいなかった。それから……その場所は崩れてなくなった。もう……ちゃんと、諦めるよ」
ヴェイルは立ち上がって、ふらふらと部屋を出ていった。呼び止められなかったのは、何故か自分が彼を心配するのではなく、縋るものを失くした彼の姿に満足感を覚えているような気がしたからだ……。
「……違う、俺は……ヴィーにここにいて欲しいけど、それは……」
イェスタは過去のヴェイルの、暗い部分ばかりを知っている。
だが、もしかしたら、そんな暗闇の中でも輝いていた小さな蝋燭の火が今消えたのかもしれない……。イェスタには、彼にかける言葉を見つけることはできなかった。




