“未来”
「っ」
受け身をとって地面に手をつく。白い制服は汚れ、手の皮膚が少し擦り剥けた。
その浅い傷口に、たらりと血が流れ込んだ。腕から流れる……返り血ではない。追跡者が罹患者を殺しても、闇に侵された魂を破壊しているだけで、血は流れない。そして今対峙している、強大な敵も、その体に血は流れていない。
「イェスタっ」
この身に加護を与えてくれた天使が、心配そうにイェスタの名を呼んだ。契約者であるイェスタ・マックスウェルは——すぐに立ち上がり、髪を耳にかけて前を見据えた。
「はぁっ、……大丈夫ですよっこのくらい」
そう言うイェスタの視線は鋭くただ怪物を睨んでいた。そこに殺意や憎しみはない。宿るのは透明な正義だけだ。
——ヴェイルを殺したあの日から、イェスタは「武力を持つ人間」ではなく、「協会が掲げる正義の兵器」になったのだと思う。
あれからどれくらい経ったかといえば……イェスタは正確に七ヶ月と十二日だと答えることができる。だがそれは客観的な事実であって、イェスタにとってあれは昨日のことのようにも、遙か昔、ないしは前世のことのようにも思えた。記憶の時間が、あの日を境に断絶されているのだった。
記憶の中の、内側だけが壊れて綺麗な青年の死体——その残像はなかなか消えなかったが、それは、もしかすると今目の前にある現実の方が受け入れ難いからかもしれなかった。そして……あんな道を辿らなければ、こうはならなかったのかもしれないと……。
「……。ああ、くそ、ザロントが……」
闇で腐蝕した時計塔が倒れた。それは商業都市ザロントのシンボルだった。絶光領域によって歪み穴が空いた地面からようやく抜け出し、軍人の肩を借りて避難していく市民たちが、一瞬皆振り返ったように感じた。
イェスタはそして、その背後に聳える暗い山を見た。ザロントを呑み込んだそれはまさに低山だったが、そのシルエットは緩やかに蠢いた。
「もう日が暮れる……急がないと」
追跡者の仕事は罹患者を斬ることだ——、そう言い切ることは、今や適切ではない。
ダロン支部のセインウェンをはじめとした覚醒者たちは、二ヶ月前、信じ難い真実を公表した。それは恐光症の真実であり、そして……新たなる脅威へ備えよという警告だった。
——恐光症とは、人間が悪魔に取り憑かれることなのです。悪魔はこれまで、堕落した人間を介してしかこの世界を訪れることができませんでした。しかしこの度、「精霊」を宿主とした事例が確認されました。
精霊とは万物の概念の根源であり、生命を超越した存在、大いなる自然の化身です。
追跡者よ、今一度祈ってください。これからこの世界では、天使を宿した精霊と悪魔を宿した精霊の戦争が始まるでしょう。人間が生き残るには、追跡者が「精霊」と渡り合う天使の契約者となる他ありません。
「……——」
その時、天から一筋の光柱が落ちた。
精霊が貫かれ、グオオオオオと鳴動した。空から降りてきたのは、非常に高位な天使の証である三対の翼、そして“天眼”を持つ天使の契約者だった。
イェスタの出る幕はもうなかったというわけだ……。力が抜けそうになって、慌てて踏ん張る。この一体が倒れたところで危険がなくなったわけでもなければ、市民と都市へ状況を伝える仕事も残っている。
しばし呆然としていたイェスタに、“天眼”の目が向いた。契約者は鍛え上げられた体の男性だった。すごく貫禄があるが、見覚えがない。遠くの地域からわざわざ駆けつけてくれたのだろうか。
「イェスタ・マックスウェルか……」
「え?」
にも関わらず名前を呼ばれて、イェスタは目を瞠った。彼は精霊が命を失ったことで生まれた本物の低山地形を歩いて、まっすぐにイェスタへ向かってくる。
「助太刀ありがとうございます。……私のことをご存知なのですか?」
「君は英雄だと、天使様が仰っている」
「えっ、英雄? ……どうでしょう、そうなりたいとは思いますが……今のままではとても」
「だが、未来で英雄になる」
「————」
契約者は天使の声を聞くことができる。彼の契約している天使は、未来予知でもできるんだろうか? だとしても信じ難いが。
「……この先の未来、ですか」
「それほど不安か?」
「いえ、本当に状況を変えられる力を持っていたのは、私ではなく……、——すみません、忘れてください」
口を滑らせてしまって、イェスタはすぐに首を横に振ってその思考を追い出した。ヴェイルは協会の敵で、彼を否定したのはイェスタの剣だ。今更何を言っても遅い。
「——言ってみろ、と天使様が仰っている」
「……——」
イェスタは躊躇ったが、三対の翼を持つ天使に逆らう勇気はなかった。少し深呼吸をしてから、まとまらない思考で話し始める。
「……ええ、一部のことはダロン・ザロント支部内で箝口令が敷かれているのでお話はできませんが。……弟のように思っている奴がいたんです。私が追跡者を志したきっかけは彼でした。しかし、彼は選定の儀で極光結晶を……割ってしまった。発症寸前かもしれないから気をつけろ、とその時追跡者の女性に忠告されましたが、実際その時には既に、彼は一種の罹患者だったのかもしれません。しかし、彼は自我を保っている他にも、あらゆる部分で普通の罹患者とは違っていました」
「————」
「でも、彼はほとんど孤立無援でした。だから俺が……、すみません、私が手にかける結果になってしまったんです。彼の力をもっと活かせていれば——何か変わっていたのではないかと、考えてしまいます」
「——名前は?」
食い気味にそれだけを問われて、イェスタは思わぬ反応に少し気圧されながら答えた。
「……彼の名前ですか? ヴェイル、といいます」
「弟ではないのか」
「はい、私が十年の夏に保護したんですよ。ただ、無理を言って選定の儀に出席したのに結果を出せなかったことで、私の預かり知らぬ約束で家を追い出されてしまって……」
「——その少年。罹患者と言うが、天使の契約者と同じ戦い方だったか?」
何かの確信を得たように言われて、思い出す。彼は絶光領域の罠と闇蟲ではなく、闇の銃を手にして戦っていた。そういう意味では、イェスタたちと同じ戦い方だと言える。
「はい」
「————」
すると彼は、穏やかで冷静な印象だった目をかっと開いて、にやりと口角を上げた。
「見つけた」
その囁きを聞き逃したイェスタはぱちくりと目を瞬かせたが、彼は構わないとばかりに微笑むばかりだった。




