第28話 春風との約束
レニーが目を覚ますと、女性は泣き出して、マグニスに快く四万Tを支払った。絶光領域があった場所にできた空洞はルアハの力を借りてできる限り戻し、証拠を隠滅……これで全ては丸く収まった。
闇の力の収支は極めて僅かなプラスだ——祝福の力の燃費は悪い。いや、本来知り得ない未来の情報が手に入るのだから安いくらいか。二ヶ月に一回程度は進行した絶光領域と出会えると期待して、このまま続けていこうと思う。レベル0で四万Tという単価は魅力的だ。
「——すごいねっ、本当に上手くいっちゃった!」
レニーたちの家から退散してしばらく、ノーマはいきなり感情が爆発したようにぴょんぴょんと跳ねながらそう言ってはしゃいだ。
「ああ……私も驚いた。まさか本当に予言が可能とは」
「この予言は外れないけど、僕たちが介入した場合の結末まで宣言するほどの余裕はない。油断するなよ」
「罹患者を助けられるなら、どれだけでも頑張るよ」
二人はこの旅の滑り出しに満足しているようだ。——ルアハも。
「……二人とも、旅に支障が出なければ、その金は好きに使っていい。食事にでも行って来い、親娘で通るだろ」
「えっ、いいの? ヴェイルさんは?」
「僕は——」
ヴェイルは少し迷った後、「デートの予定がある」と無難っぽい答えを返した。
「え——っ! いつの間に! えっ、冗談?」
ノーマは大声を出して驚いて、慌てふためいて目をぱちくりとさせたが、ヴェイルがあまりにも平然としているので混乱していた。さっきは追跡者の貫禄があったのに、年頃の少女感丸出しだ。……だが確かに、この街には来たばかりなのにデートの予定があったら「いつの間に」となるか。ヴェイルはそう遅れて気づいたが、面倒なので特に訂正はしなかった。
「とにかく、また宿で。それじゃ」
「ほ……ほんとか知らないけど、じゃあ、あたしたちだけで美味しいもの食べちゃうよー?」
ヴェイルは踵を返して、ひらりと手を振って二人から離れた。豪勢な食事は、多分マックスウェル家での日々を思い出してしまうから、あまり見たくなかった。あんなものは面倒なだけだ。
◇
住宅地を離れ、導かれるように自然の多い方へ歩いていくと、端にブランコがぽつんと作られているだけの公園に辿り着いた。誰もいないのを確認してから、ベンチの一つもないのでそのブランコに座る。
「ルアハ」
ヴェイルは眼帯を外し、両目を開く。この右目はルアハに感覚を共有するだけでなく、ヴェイルに彼女の姿を実在する幻として見せてもくれる。
彼女はすぐそばにいて、ヴェイルの顔を……右目を覗き込んだ。
幻の指先が頬に触れる。彼女は沈痛に目を細めた。
「……この傷を付けた人間は、“天眼”を見たのかしら。あなたとはいつも眠っている時に会っていたから、意識が薄れた時“天眼”状態になる条件反射ができていたのかもしれないわ」
「…………」
「人前ではちゃんと隠して頂戴ね」
「うん。でもあの頃の僕と今の僕は似ても似つかないから、万が一あの男が“天眼”を知って僕の目を切ったんだとしてもきっと分からないよ」
「そう? 全然変わってないと思うけど……」
そう言われて、ヴェイルは思わず不満を露わにして彼女を見た。
「それは君の前では格好つけてたからさ」
あの頃の“永遠の春”の中での「いい格好」は当時のヴェイルの想像の域を出ない。髪はそのままだったし、服のディティールはめちゃくちゃだったはずだ——そもそもヴェイルは「皺のない服」を想像することすらできなかったのだから……。その頃と全然変わっていないと言われるのは複雑な気分である。
「他の人と話すあなたを見た時は、変わったのかもしれないと思ったわよ。随分素っ気ないのね……」
「別に普通だよ」
ルアハは隣のブランコに腰掛けて、伸ばした両足を上げて少し空を見上げた。吊り下げられて不安定な小さい板はぴくりとも動かない。
「——それで? 話してくれる気になった?」
ヴェイルが訊ねると、ルアハは視線を下げて「……ええ」と頷いた。
ルアハと運命を共にするには、まず彼女の置かれた状況を知らなければならない。何故天使としての正義感を保ちながら堕天してしまうに至ったのか。しかし、ルアハはまだ全てをヴェイルに話すには心の準備ができていなかった。
一つ、予言による作戦が成功したら話す。彼女はそうヴェイルに約束していた。
「“天眼”を使ってこの世界を人間と同じ次元で覗き見ることができるのはね、天使の中でも〈キレトの十指〉とよばれる十人だけなの」
「キレトって……キレトリア教の神だっけ」
「ええ……でもね私、まさか自分がその一人だなんて思ったことはないわ……」
ヴェイルは片眉を上げた。〈キレトの十指〉はキレト神の側近か何かではないのだろうか。任命式か何か大袈裟なことをやりそうなものだ。人間社会と比べてはいけないのかもしれないが。
「私は本来、はっきりした自我もない存在だったの。ただの、キレト様の意思に従ってどこかを漂う精霊。私はあの頃名もなき“春風”だった。……そう、春風。でもある日、私の元に〈キレトの十指〉の一人が現れたの。オラジン——彼はそう名乗ったわ」
「…………」
「オラジン様は私を捕まえて、私に『予言』の力があって、それが必要だと言った。その時に私はこの姿を手に入れて、祝福を持つ天使になった。でも天界に足を踏み入れた瞬間、私は天使同士の激しい争いに巻き込まれて、やっとの思いで天界から逃れたの。堕天という扱いになってしまったけど……そうするしかなかった」
「天使同士で?」
「そうよ。彼らにはみんな、強い自我があった……。その争いにおいて、『予言』の力の存在は危険だと言うの。これは本当にキレト様の采配なのかしら……私には分からない」
ルアハの恐怖と、それよりも大きな悔しさが、ヴェイルには浸透するように伝わってきた。ルアハが堕天し、それでも尚天使としての高潔さを持つのは——彼女が、本来そう在るべき天使に失望して堕ちてきたからなのだ。
「——今この世界で行われているのは、悪魔を討つ聖戦であり、人間が戦う代理戦争であり、そして天使の勢力争いなの。ヴェイル、あなたが『勝者として最後に立つ』と言った時、私は思わず畏れてしまった。でも……そうするしかないのかもね」
ルアハは戦いたくないのだ。ヴェイルは彼女を哀れみつつ、戦うのは自分だと励ましてやろうと思った。しかし顔を上げた彼女と目が合った時——ヴェイルは何も言えなくなった。
ルアハはそれでもやはり、これが代理戦争であることを一番悲しんでいるらしい。
「ノーマの話にあった追跡者の女性は“天眼”を隠している可能性が高いわ。他の天使の“天眼”は私とあなたの繋がりとは違って一方的なものだけれど、悪魔のことを知っているということは、少なくとも言葉を交わしたということ。つまり……堕天使の存在も知ることができる」
ダロンから離れたのは正解だったか。今現在の「予言」の力だけでは、堕天する前のルアハが逃げ惑ったような存在を相手するのは難しいだろう。
「ごめんなさい、私はこれだけのことしか知らないの。キレト様がいち精霊をどうして知ろし召し、そして祝福されたのかさえも……。でも、惑っている暇はないわ」
ルアハは前を向いて、悟ったようにそう言った。
「ヴェイル——それでも私はこの力を使って悪魔と戦いたい。いつか厄災の運命が視えても、天使が私を否定しに来ても、自分を信じて立ち向かいたい」
「ああ」
「……本当に、私と生きてくれる?」
「まったく、しょうがない奴だな。ずっとそう訊いてたのは僕の方なのに」
そう言うと、ルアハは申し訳なさそうに眉尻を下げて、笑って、じわりと瞳を滲ませた。軽やかな笑い声が、心の全ての冬を溶かしていった。
ヴェイルは立ち上がって、真似をしてブランコに座っているルアハの前に跪いて、その左手首に触れた。ルアハはヴェイルの動きに従って、その手を前に伸ばす。確か、騎士というのはこうして忠誠を誓うのだったか。どうだったか。結局、ヴェイルは彼女の前では格好つけてしまうようだ。
「——もちろん」
はっきりと伝える。もう二度と見失わないように。
彼女の薬指に落とした唇に風のゆらめきを感じる。春風はいつもそばに吹いている。




