第22話 君のためなら何だって
「な、」
「——ありがとう、ヴェイル。この一瞬が、彼の最初で最後の隙——」
柔らかな春風のような声が脳を甘く貫く。
ヴェイルはガタッと椅子を蹴って立ち上がった。マグニスは「う……グ……」と呻き、目を血走らせてもがいていた。その悪魔の——巨大な絶光領域を作り出していた膨大な闇の力が、ヴェイルの影へと流れ込む。衝撃の奔流が体を駆け上がり、ビリビリと指先まで痺れた。
「ッルアハ! ルアハ、そこにいるのか?」
ドクン、ドクンと心臓が高鳴る。膝から崩れ落ちたマグニスの背後に、彼女は立っていた。
「…………」
白金の髪が肩を流れ、透明な瞳がヴェイルを捉える。彼女はそして、困った顔で微笑んだ。
「ルアハ——ずっと会いたかった」
言いたいことが山ほどある。あの頃は君を信じれなくてごめん。でももう嘘じゃない。今の僕は薄汚い鼠じゃない。君のために何だってできる!
「ヴェイル。私がもう少しこの領域を保たせるけれど、早く脱出しましょう」
「ああ、君も……」
ルアハはヴェイルに歩み寄って、その薄い手でヴェイルの頬をなぞった。その感触はなかったが、彼女は確かにヴェイルに触れた。彼女の姿はあの頃と寸分も違わない。はっきりとできた身長差が、誇らしいような寂しいような気がした。
感じ入っていると、ルアハの腕が粒子のように細かくなって消えていく。驚き慌てて掻き集めようとするヴェイルに、彼女はおかしそうに笑った。
「私の力を預けるわ。その壁に触れてみて」
「わ……分かった」
「大丈夫」
そう言ってルアハは消えてしまった。
ヴェイルは夢見心地のまま、言われた通り背後の壁に触れてみた。すると壁がサラサラと、まるで最初から砂が集められていたかのように崩れ——
「うわあっ」
「!」
その穴から凄まじい光が閃いて、間一髪ヴェイルは飛び退いた。見ると、そこには汗だくで涙目のノーマが息を切らしていた。
「危ない……」
ランタンの火が消えて、その中は真っ暗だった。彼女はヴェイルの声を聞いた瞬間、ほっと表情を緩ませてへたりと座り込む。そのまま啜り泣き始めるので、ヴェイルは壁の残った部分を跨ぎ越えてその手首を持ち上げた。
「……帰るぞ、ノーマ。目的は達成した」
「ひぐっ……、よ、よかった……。あ、あの罹患者の人はどうしたの?」
「そこで倒れてる」
親指でクイっと指すと、ノーマは慌てて光で辺りを照らし、マグニスに駆け寄ってしゃがみ込んだ。
「恐光症は治ったの? でも、まだ絶光領域は崩れてないよね……?」
「領域はル……僕が引き継いだ。だから闇蟲もいない。今のうちに脱出しよう」
ノーマは頷くと、「よいしょっ」と言ってその小さい背中に気を失ったマグニスを乗せた。
「……ノーマ、そいつをどうするんだ?」
思わず訊ねると、ノーマはきゅっと唇を引き結んで俯いて、それから歩きながら答えた。
「追跡者に見つかったら、この人も多分殺されちゃうよね。うん、分かってる。……それでもあたし、助けるよ」
「…………」
彼女はこのために、ヴェイルについて絶光領域に飛び込んだのだ。
現実に引き戻されたヴェイルはため息を吐いて、マグニスの肩を引っ張ってぐいっと持ち上げた。ノーマがヴェイルを見上げる。
「僕は道を作る。おまえももう光を使えるんだろ、そのまま前も照らしてくれ」
ヴェイルは右目の“天眼”で絶光領域の様子を視ることができるが、彼女はそうはいかない。
ノーマの手の中で光がいくつかの立方体の形をとって、それが浮遊すると、辺りはすっかり照らされた。見覚えのない広い階段は、まっすぐ地上へと繋がっているようだった。
脱力したマグニスは、しかし、三年間罹患者として違う理のもとで生きてきた分、成人男性にしては軽かった。
二人は束の間の冒険を反芻しながら、言葉なく階段を登った。
しばらくすると、土の匂いがした……外の森の匂いだ。ノーマは光を一つ一つ消していった。外は快晴で、月と星の光が夜を優しく包み込んでいる。
柔らかい地面を踏んだ時、ノーマは呆然とした声で呟いた。
「……何だか、入る前と全然違う世界に来たみたい」
「ぼーっとしてる暇はないぞ。明日には〈マグニスの絶光領域〉攻略完了は大ニュースになる。まずは宿に外出がばれないように戻って……マグニスには早く目を覚まして、自分で変装してもらわないとな」
「次はどうするの?」
「少し考える時間をとるよ。ノーマ、おまえも好きに過ごしてろ」
ヴェイルは僅かに声を弾ませながら歩き出した。ノーマは不思議そうに首を傾げながら、全く疲れを感じさせないその歩調に引き離されて、慌てて「待ってよー!」と小走りで追いついた。




