第17話 下り坂ほど進みやすい
ザロントには追跡協会支部がある。西側を一括で管轄する支部で、追跡者への道をあのまま進んでいれば恐らくイェスタもここに配属されているだろう。イェスタと接触することはマックスウェル伯爵に禁止されているが、ルアハの実在を確認した今のヴェイルにはそのような義理はどうでもいいことだった。
スフェーン・ダロン間では時間をかけて地道に移動するしかなかったが、ダロン・ザロント間には鉄道が引かれていた。日暮れ前、ヴェイルが駅に降り立つと、これまた発展した街並みがダロン方面からの乗客たちを迎えた。
六年前まではザロントの方が県都だったらしい——少なくとも駅の周辺はダロンと全く遜色ない活気だった。そしてありがたいことに物価が安い。ヴェイルのいかれた舌では、食事の違いは極端に焦げているとかでない限り分からないが、ダロンと同じ予算で腹が満たされれば多少の幸福感はあった。
ただ、マックスウェル家との手切れ金は大金だが、無限ではない。電車賃、食事代、宿代。金を使う生活を続ければ先がないことくらい、マックスウェル家に少しいた身だ、ちゃんと分かった。それは困る。ルアハとまた会えた時、見窄らしい格好をしていたくない。
と考えた時、ノーマの顔が浮かんだ。彼女のことは情報提供者としてしか見ていなかったが——その結果ノーマはアネを取り戻し、ヴェイルに感謝した。恐光症が治療されたからだ。ヴェイルはあれを悪魔の捕獲としてしか認識していなかったが——治療費をもらってもよかったのではないだろうか?
恐光症の治療法はない。つまり、もし治せるのなら高額の治療費を払う価値があるということだ。それは例えば貧民街で取引される銃のように、その人の世界を変えるほど大きなことだから。
ヴェイルは駅から離れた安宿で一夜を明かし、翌日、再び街に出た。ザロント管轄の地域に〈マグニスの絶光領域〉があることは分かっていたが、具体的にどう向かえばいいのかは知らなかった。そもそも公共の交通機関を使うという経験がほとんどなかったし、地名を見てもピンとこない。かといって、〈マグニスの絶光領域〉に行きたいとそのまま人に伝えるのもいかがなものか。
「…………」
新聞を一通り見る。発見当時は世間でも騒がれたのかもしれないが、膠着状態の絶光領域は話題になっていないようだ。この世の失踪事件の三割は恐光症の罹患者またはその被害者といわれているが、情報が新鮮なうちにそうと断定できることは少ない。新しいメディアでは分からなさそうだ。
ヴェイルは新聞屋を離れ、本屋に入った。早速、ビギナーのためのザロント案内——素朴な表紙の案内雑誌を見つけ、パラパラと捲っていく。するとそこに書いてあるのはこの駅周辺など発展した街のことばかりで、広大といわれる〈マグニスの絶光領域〉の影はなかった。
だが引きの地図を見て見当はついた。北東部の森林地帯だ。アクセスは良くないが、別に急ぐ必要はないだろう。
「……まあ、これでいいか」
ヴェイルは単純に地図を買うことにした。小銭が失われて、情報の紙束が手に入る。路地裏の鼠には価値の分からない代物だった。
「まっ……待って——」
せっかくだし、ザロント支部の近くまで行ってみてもいいかもしれない。ダロンでは結局支部に行かなかったが、追跡者同士の会話でも盗み聞きできれば——。
「待って……ヴェイルさん!」
「!」
突然聞き慣れない声に名前を呼ばれて、ヴェイルは振り返った。
「はあ、はあ……」
「……ノーマ?」
彼女は少し離れた場所で走るのをやめて、クタクタの体を荒い呼吸で上下させた。必死な表情で、彼女がずっとヴェイルを探し回っていたのが分かった。
聞き慣れない、とはいえ聞いたことがない声とは思わなかったが、まさかノーマとは。だが確かに、ヴェイルを「ヴェイルさん」と呼ぶのはノーマとアネしかいない。
ヴェイルは彼女に歩み寄って腕を貸した。出会った時は綺麗に整えられていたノーマの髪は、今はただ結んであるだけだった。
「どうしてここに」
「ヴェイルさん……よかった。本当によかった、まだザロントにいてくれて」
「何かあったのか?」
「あのね——」
彼女の目に涙が滲む。アネが戻ってきて、彼女は幸せになったはずだった——。しかしその涙は、友達が恐光症に罹患してしまったのだと相談してきた時よりももっとずっと重い、暗い絶望感を孕んでいた。
「まずは落ち着け。場所を変えよう」
「うん……」
彼女はヴェイルの腕にしがみついて、俯いて歩いた。
ヴェイルは適当な喫茶店に入って、ひとまずノーマを座らせた。二人分のモーニングを注文して、呼吸が整ってきた頃に彼女に訊ねる。
「まだ朝だし——昨日僕が出た後、アネに何かあったのか?」
「……ううん。アネは、元気だったよ」
「?」
「でもね……二人で遊びに出かけたら、……追跡者の人たちがやって来て」
ノーマは言いながら、じわじわと湧き上がる激情に拳を握り締めた。ヴェイルには話のオチが既に読めた。
「……アネを殺したの」
「外にいて、恐光の症状はなかったんだろ?」
「うん。でもあいつら、アネのこと……一回恐光症になった時点で、悪魔に魂を明け渡してるから、もう光の世界には戻れないんだって言って」
「——『悪魔』だって?」
「え?」
ヴェイルは思わず少し身を乗り出した。その存在は、恐光症の真の原因は、ルアハと話した自分しか知らないはずだった。だが……同じように真実を知っている者が、追跡者にもいるのだろうか?
「『悪魔』について、そいつは他に何か言ってたか?」
「えっ、と……、私に、しっかりしろって。じゃないと、私も悪魔に見初められるって……言われたような」
「…………」
なるほど、恐光症は単に悪魔に取り憑かれるのではなく、弱っている者が悪魔に取り憑かれることで発症するのか。そしてアネの記憶がなかったことから考えて、取り憑かれている間、意識は悪魔に渡っている。
「それは多分本当だ。気をつけた方がいい」
「えっ」
「いや、僕の目の届く範囲なら発症してもいい。むしろそうしてくれるとありがたい」
「……そうなんだ、あの人の言ってたこと、嘘じゃないんだね。でも……ヴェイルさんは恐光症を治してくれるけど——あの人たちは、一度恐光症になった人を二度と光の世界に帰さない」
「そいつの特徴は?」
「女性で、追跡者と同じような格好だけど、ちょっと違う。動きにくそうなヒールで、顔にベールがかかってて、目が見えなかった……」
「分かりやすそうだな。そいつは、僕について何か言ってたか?」
「ううん……何も訊かれなかったよ」
訊かないということは、〈アネの絶光領域〉に現れた人物が何をしたのか既に見当がついているということだろう。そして彼女はその上で、アネを殺した。
恐光症を治せる可能性がある場合、彼らはその手段を取り入れようとするものだと思っていた。しかし実際には、彼らは治ったという事実をまず受け入れなかったのだ。だがそこにはヴェイルのまだ知らない何かがあるのかもしれない……と考えるのが自然だろう。ヴェイルは力を救済のために使うつもりはないが、追跡者は基本的に違うはずだ。
「僕ももっと知る必要がある。そのためにも先を急がないと……」
「ヴェイルさん、〈マグニスの絶光領域〉に行くの?」
「ああ。そういえば、おまえは何で僕を探してたんだ?」
悪魔を知っているベールの女について知れたのは収穫だったが、元々ノーマはそれについて話す気はなさそうだった。
テーブルにモーニングが並べられたが、彼女は手を膝の上に置いたまままっすぐヴェイルを見ていた。
「——あたし、」
その時、ヴェイルはふと無意識に、窓の外を歩く一人の男を目で追った。見慣れた銀髪と、堂々とした高貴な立ち振る舞い——。
バチッ、と目が合う。彼は立ち止まって目を丸くして、弾かれたように走り始めた。ヴェイルは慌ててノーマに向かって口の前で人差し指を立て、立ち上がる。




