第16話 引き返せない少女
「それじゃあ……気をつけてね。次はどこに行くの?」
ノーマとアネに見送られて居心地悪そうにしながら、ヴェイルと名乗った青年はノーマが繕ったローブを羽織った。あの時はフードの下に覗く赤い隻眼に少し(いや、だいぶ)びっくりしてしまったが、今は彼が意外と穏やかな性格であることが分かっていた。
彼の素性はよく分からない。食事を綺麗な所作で済ませたかと思えば、ベッドはいいと言って部屋の隅で膝を抱えて眠ってもいたし、眼帯を外すところをチラリと見ると、普通に生きていて何があったらそんな傷を負うことになるんだろう、と思う、確実に人為的な怪我の痕が残っていた。
けれども多くは訊かない。ノーマにとっては、アネを救ってくれたヒーローであること、それ以外は重要ではなかった。
「ダロンからは離れて、一旦西に戻ることにする。ザロント管轄の〈マグニスの絶光領域〉だ。知ってるか?」
「えっと……」
「リアルタイムで構造が変化して、いくらマッピングしてもその翌日には無駄になる……罹患者の居場所も分からないからいつも振り出しに戻る、っていうどうしようもない絶光領域さ。かれこれ三年間難攻不落らしい」
「そんなところに一人で行くの? 危険じゃない?」
「他に位置が分かってる絶光領域が近くにない以上、どうしようもないだろ? 大勢が攻略に関わってるわりに殉職者は少ないらしい。絶光領域側が、闇蟲でじゃなくて構造で対処してるからだろうな」
「でもアネの時は、ヴェイルさんだけじゃ攻略できないから追跡者を追いかけたんでしょ?」
アネも不安そうな顔をしている。アネに発症していた間の記憶はないけれど、アネは恐光の症状を体感した分、恐光症への恐怖心が強くなっているようだった。
「——言っただろ、十分収穫はあったって」
しかし、ヴェイルの返事は快いものだ。心なしか、出会った時よりも彼は嬉しそう……というより、幸せそうに見えた。よく目を細めて微笑むし、声の調子も明るい。
彼は最後に鞄を肩にかけると、トンと上品な靴の足音を鳴らしてドアに手をかけ、振り返った。
「じゃあな、世話になった。ノーマ、お前の両親にも伝えておいてくれ」
「うん! あたしたちこそありがとう、また遊びに来てね!」
「ありがとう、ヴェイルさん……」
彼はそうして、ふらりと気まぐれな雰囲気のまま去ってしまった。通りの流れに合流していくその背中を、ノーマとアネは二人で見えなくなるまで見送った。彼の足取りは堂々としていて、全く住む世界が違う人という感じで、あの出会いは運命だったんだ——と思った。
ノーマは彼のいなくなった道に小さく手を振って、アネの方を見た。一晩よく休んで、かなり回復したみたいだった。
「——アネ、あたしたちも外に遊びに行かない?」
そう言うと、ちょうど太陽が雲間を通って、アネの瞳がキラッと光った。彼女は少し体を震わせたけれど、ノーマの手をとって頷いた。
「うん!」
◇
秘密基地があった公園は、絶光領域が確認されてから封鎖されているだろうとヴェイルが言っていたから、ノーマとアネは久しぶりに二人で教会へと足を運ぶことにした。
県都の教会だけあって敷地はかなり広く、建物も立派だ。ノーマたち子供は、いつもその横の庭で遊んでいる。庇の下のテーブルでは、その時いる誰かに勉強を教わることができた。
「こんにちは!」
「あら、なんだか久しぶりね、ノーマちゃん、アネちゃんも」
おばさんにそう言われて、ノーマは何も言わずににこりと笑った。追跡者は聖職者と繋がりがある。アネが罹患者だと知ってからは、ノーマも教会に通えていなかったのだ。
「ノーマ、秋の花が咲いてるよ」
「だね」
アネに袖を引かれて、庭を一通り見て回る。毎年、ここの庭は全部の季節で綺麗に見えるように整っていて、一つ変化を発見する度に季節の移ろいを感じるものだ。それは日差しの強さや一日の長さと連動していて、あるいは天気をも動かした。
しゃがんで植物の背丈に身を隠すと、秘密基地で遊んでいた時のことを思い出せた。ノーマとアネの秘密基地は、五年間続く魔法の薬屋さんだ。レシピの数は三十以上にのぼり、季節限定商品もあれば、熟成させて瓶詰めした高級品もあった。
「お薬屋さん、またやろうね」
アネがふと、そう呟く。ノーマは嬉しくなって、「もちろん。どこに移転しよう?」と応えた。
その時だった——ぬっと影が現れて、しゃがんで小さくなった二人は包み込まれた。それは誰かの影だった。昼下がりで太陽は高く、影が小さくてもそう分かった。その人はアネの背後に立っていて、真っ白くて格調高そうな服を着ていた。ノーマは、その服に見覚えがあるような気がした。
「——アネさんとノーマさんですね」
「え? ……はい、そうですけど」
ノーマは立ち上がった。その人はヒールを履いた女性だった。ベールのようなもので顔が半分隠されていて、すごく立場が高そうだということだけがパッと見で伝わってくる。
アネが立ち上がると、僅かに上がった首の動きで、彼女がアネを見ているのが分かった。彼女は「ハズレ……」とため息を吐くように声を出すと、次にこう言った。
「彼女は確かに罹患しています。処罰を」
「えっ?」
ノーマは耳を疑った。
次の瞬間、その人の横に控えていた人が前に出てきて、剣を抜いた。その時ノーマは思い出した——その白い、軍人と聖職者の中間のような制服。
追跡者だ。
「え? えっ?」
「みなさん、狡猾な悪魔に惑わされ迷わないで。私にはかの心の闇が見えます」
「……っ、……え?」
銀色の刃に胸を貫かれたアネの体が傾き、目を見開いてノーマを見上げている。
彼女は言った。
「一度罹患した時点で、かれは既に悪魔に魂を明け渡しているのです。堕天した天使が天使に戻ることがないように——悪魔の宿主となった人間は、再び主の統治する光の世界に戻ることはできません」
「え? な……何してるの? 何? 何で……」
「ノーマさん。あなたは悪い夢を見ていたようです。ですがもうご安心を。主は、あなたが再び前を向くことを待っています」
主の思し召し? あの運命的な出会いの、こんな結末が?
「え……?」
アネの体がどしゃりと力なく崩れ落ちた。
貫かれたのは自分じゃないのに、ぐわんと視界が曲がる。彼女の死体はすぐに布に覆われて、まるで物のように抱え上げられた。少しだけ庭の石畳に血痕が残っていた。それはアネのものだった。
「心が痛いですか? 悲しいですよね」
「っ」
ベールの女がそう言った。ノーマに訊ねたのだった。彼女は逆光の太陽と、教会の屋根のシンボルを背負っていた。キレトリア教のシンボルは、二つの頂点を共有して内側へ描いていった三つの菱形の、一番小さいのを塗り潰したような形をしている。それは遠目から見ると、瞼のついた眼球のように見えた。
「ですが、あなたはそれを乗り越えなくてはなりません。そうでないと、あなたもまた悪魔に見初められてしまいます」
「あ、悪魔……?」
「そうです。怖いでしょう? でしたら、しっかりしないといけませんよ。あなたに主の眼差しが注がれんことを。それでは、私は失礼いたします」
「は?」
ノーマは呆然としていた。
カッ……と日差しが照りつけてクラッときた。アネは再びノーマの前から消えた。もう、現れない。
アネの恐光症は治っていた。確実に。ノーマの希望的観測なんかじゃなくて、本人も、ヴェイルもそう言っていた。この日のもとで前と同じように遊んでいた。それでも、奴らは追ってきた。
「——これが……追跡者の仕事なんだね」
ノーマは震えた声で涙を呑んで、去りゆく大人たちの背中のシルエットをよく、よく覚えた。白の制服。短い軍服に似たマントと、丈の長いローブの後ろ姿を。




