9.サクラコ
食堂の戸締まりを終える頃には、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに静かになっていた。
雨音だけがぽつぽつと屋根を叩いている。
俺は明日の仕込みをしながら、ぼんやりと手のひらを見つめていた。
まだ、あの時の感触が残っている気がする。
あんな力、俺にあったなんて信じられない。
あの時、頭がぼんやりしていたからまだ半信半疑だ。
「考え込んでるな」
振り返ると、ヤマト殿下が静かに立っていた。
「……あ、いえ。ちょっとだけ」
「いろいろありすぎた」
しれっと殿下は隣に並ぶ。
「さっきのことだが――」
一瞬だけ言葉を選び、そして続ける。
「お前がどういう存在かは、今はまだ決めつけないでおく」
「……殿下」
「ただ一つ言えるのは」
真っ直ぐ真剣にこちらを見る。
「お前は、間違いなく人を助ける側の人間だ」
そう言ってからも、ヤマト殿下の視線はしばらく俺から離れなかった。
まるで、俺より先に何かを見つけてしまったみたいに。
「……そんな大したもんじゃないんですけど」
この人、やっぱり俺の事をじっと見つめてくるし。
「ユラぁ~!」
奥からハヤミさんの声がした。
振り返ると、エプロン姿のままぱたぱたと駆け寄ってくる。
「もう閉店終わったよ~。おつかれさまぁ♡」
「お、おつかれ……ハヤミさん。手伝ってくれてありがとう」
公爵令嬢が皿洗いとか恐れ多いと断ったのだが、白馬の王子様の手伝いがしたい!と、強引に閉店作業に割り込んできたのだ。仕方なく皿洗いを任せたら大層喜んでいた。喜ぶようなものなのか。
さすがにヤマト殿下には何もさせられないと言ったのだが、率先してテーブルを拭いたり椅子を綺麗に並べてくれた。
最近の王侯貴族は平民のお仕事が流行なのか。
「ね……無理してない?」
ハヤミさんはじっとこちらの顔を覗き込む。
「え?」
「さっき、ちょっとだけ怖そうな顔してたから」
一瞬、言葉に詰まる。
でもすぐに軽く笑って誤魔化した。
「大丈夫だよ」
そりゃあびっくりするだろう。こん棒をへし折るんだから。見た目通りの熊そのもので笑える。
それでもそれ以上は踏み込まないように、ハヤミさんはにこっと笑った。
「ハヤミ達はそろそろ帰るね。今日は何も考えずにゆっくり休むんだよ」
「……うん。ありがとう」
「また明日」
「ま、また明日?」
明日って学校で会うのか。
「おいユラ」
今度は親父の声。
振り返ると、腕を組んでこちらを見ている。
「今日はよくやったな」
「……なにが」
「全部だ」
親父はふっと鼻で笑う。
全部って抽象的過ぎてわからないんだけど。
「ま、無理すんな。お前はお前のペースでやりゃいい」
「……うん」
短く返事をすると、親父はそれ以上何も言わず店の奥へ引っ込んでいった。
残ったのは、静かな夜の空気だけ。
俺は空を見上げる。
雨はいつの間にか止んでいて、雲の隙間からわずかに月が覗いていた。
わからない事が、増えていく。
日本で過ごした記憶の事や、さっきのこん棒をへし折った馬鹿力の事。その他にもいっぱい知りたいことがたくさんあって、頭がパンクしそうで――――
「……ま、いっか」
ぽつりと呟いて、軽く伸びをする。
考えてもしょうがない。ウダウダ考えてても答えなんて出ないんだから。
明日もまた、いつも通りだ。
――――たぶん。
翌朝、まだ日が昇りきる前の薄暗い時間。
店の厨房には、すでに明かりが灯っていた。
ことこと、と小気味いい音が静かな空間に響く。
包丁がまな板に当たる規則的な音。味噌汁の湯気がゆらゆらと立ち上る。
あれ、親父もう起きてるのか?早いな。
寝ぼけた頭で階段を降りていくと、そこにいたのは親父じゃなかった。
「おはようございます、ユラさん」
振り返ったのは、青髪の女性――――サクラコさんだった。
柔らかく微笑みながら、手際よく鍋をかき混ぜている。
「え……サクラコさん?」
「はい。少し早く目が覚めてしまったので、勝手にお借りしてしまいました。ごめんなさい」
申し訳なさそうに言うが、手元はまったく止まらない。
すでに厨房は整えられていて、食材もきれいに下ごしらえされている。
……いや、これ少しどころじゃなくない?
「いや、全然いいですけど……っていうか、早すぎません?まだ朝の5時……」
「ふふ。昔から、こういう時間が落ち着くんです」
にこりと笑う。
その笑顔は、どこか慣れているようにも見えた。
ああ、この人、こうやってずっとやってきたんだな。
「ちょうどよかったです。朝ごはん、できてますよ」
テーブルには、すでに湯気の立つ朝食が並べられていた。
焼き魚に、だしの香りが立つ味噌汁、炊きたてのご飯。
小鉢もいくつか添えられていて、見た目からして丁寧だ。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
「お口に合うかわかりませんが」
「いや、絶対うまいやつですよこれ」
席に着いて一口。
――――うまい。
優しい味だ。体にすっと入ってくる感じがする。
昨日のごたごたで張り詰めていた何かが、ほどけていく。
「美味しいです」
「よかった」
ほっとしたように微笑むサクラコさん。
その笑顔を見ていると、理由はわからないけど安心する。
なんか、こう……帰ってきた感じがするというか。
その後も、サクラコさんはずっと動きっぱなしだった。
仕込み、掃除、準備――――おまけに美人。
どれも無駄がなくて、見ていて気持ちいいくらいだ。
お嫁さんに欲しい……っ!
「なんだこの朝飯、めちゃくちゃうめぇぞ」
「新しい人すげぇな……」
「おれ、ファンになっちゃいそ」
「こんな美人のメシを食えるなんて幸せだぁ」
続々と起きてきたバイト戦士達も、口々に驚いて絶賛している。
そんな声にも、サクラコさんはにこにこと頭を下げるだけ。
嬉しそうなのに、出しゃばらない。
「お代わりたくさんありますので、遠慮なく召し上がれ」
この人、できすぎじゃない?
そう言う声は優しい。
けれど、どこか誰かの機嫌を損ねないようにする癖みたいなものも混じっている気がした。
DV旦那とやらはこんな素敵な女性を蔑ろにするなんて信じられない。
目が節穴なんじゃないか。
いや、違う。
こんな人だから、壊されたのかもしれない――と、やめやめ。朝から重いこと考えるな。
そこまで考えて頭を振った。
「ユラさーん、そろそろ学校じゃないですか?」
ふと時計を見ると、いい時間だった。
「うわ、やば。遅れる」
慌てて立ち上がると、サクラコさんはすっとエプロンで手を拭いて、こちらに向き直る。
一歩、近づいてきて――――
「行ってらっしゃい、ユラさん」
やわらかく、でもしっかりとした声。
その声はただの挨拶なのに、妙に胸に残る。
なんだこれ。
ちょっと、くすぐったい。
「……い、行ってきます」
なんとなく照れくさくなって、目を逸らしながら返した。
「はい。お気をつけて」
優しい声が背中に届く。
店の外に出た瞬間、朝の空気がひんやりと頬に触れた。
なんだろう。
昨日までと、同じはずなのに、少しだけ違う気がした。




