第187話:涙の雨と、禁忌への執着
リディアの空から、しとしとと冷たい雨が降り始めた。
母親の病室を後にしたリリーは、廊下で雨音を聞きながら、隣に立つ大介に深く頭を下げた。
「……ダイスケ。本当、に……ありがとう。お母さんがあんなに穏やかに笑うところ、もう二度と見られないと思ってたわ」
「よせよ。お前はうちの役員なんだ。福利厚生の一環だよ」
大介はいつものように茶化したが、リリーの瞳から零れた涙は、喜びだけではなかった。
彼女は、先ほど山城医師が大介に告げた冷徹な事実を、魔術師としての鋭い感覚で悟っていた。
「……でも、分かっているの。魔法で魂の流出を止めても、この世界の理からは逃げられない。お母さんの髪は白くなり、肌は乾いていく……。いつかくる『その日』だけは、魔法でも、あなたのお金でも、どうにもならないことも……あるのよね」
リリーが漏らしたその言葉は、大介の心臓を素手で掴まれるような衝撃を与えた。
ビジネスという武器で世界を塗り替え、奇跡すら買い叩いてきた男にとって、それは唯一認めがたい敗北の宣言だった。
「……金でどうにもならないことなんて、この世に合っちゃいけねえんだよ」
大介が吐き出した声は、地を這うように低く、執念に満ちていた。
深夜。新宿の本社に戻った大介は、明かりもつけずに執務室のデスクに向かっていた。
目の前にあるのは、最新の決算報告書ではない。かつてポータルと一緒に持ち帰り、エイミーに「使うべきではない」と諭された古い魔導書――「時間退行」の記述だった。
(寿命が壁だと言うなら、その壁をぶち壊す仕組みを作るだけだ)
大介の頭脳が、ビジネスマンとしての論理を逸脱し、狂気的な熱を帯びて回転し始める。
今の自分には金がある。リリーという天才魔術師がいる。
セレナという長命種がいる。そして、世界を繋ぐ「ポータル」という、時空を歪める最大級のバグが手元にある。
「エイミー……」
大介は、デスクに飾られたエイミーの写真を指でなぞった。
彼女を一人にしない。自分が老いて、醜くなって、彼女の思い出の汚点になる前に。
たとえそれが、世界の理を書き換える「禁忌」に触れることだとしても。
大介の瞳に、健全な「愛」を超えた、冷たく青い火が宿った。
リディアトレードの新たなプロジェクト。それは利益のためでも、世界の平和のためでもない。代表取締役・佐藤大介の「若さ」を、強引に奪い返すための戦いだった。
【若返りの手段】編へ続く。




