第108話:沈黙の連鎖
夕食の後、重苦しい空気が漂う廊下を歩いていると、背後から衣擦れの音が聞こえました。
振り返ると、そこには影のようにひっそりと立つ母・マーガレットの姿がありました。
「エイミー……ごめんなさいね。お父様に逆らえなくて。お前が帰ってきたというのに、あんな言い方しかできなくて……」
母の言葉は震えていました。けれど、その手はエイミーの肩に触れることさえできず、ただ力なく空を切ります。
その瞳に宿っているのは、娘を想う慈愛よりも、自身の無力さに打ちひしがれた絶望でした。
「お母様……いいんです。わかっていますから」
エイミーは努めて冷静に答えましたが、胸の奥では冷たい風が吹き荒れていました。
母はエイミーの味方でありたいと願っている。
けれど、この家という檻の中で、母自身もまた、声を出すことさえ許されない囚人なのです。
ここには自分を助けてくれる力も、共に戦ってくれる言葉も、何一つとして存在しません。
「……エイミー。もう夜も深いですし、今日はお前の部屋で休みましょう? 明日になれば、お父様も少しは落ち着いて――」
「いえ、お母様。私、やっぱりここに居てはいけない気がします」
エイミーは、母が差し出そうとした言葉を遮るように首を振りました。この家に留まれば、待っているのはアルフレッドとの政略結婚という名の「緩やかな死」です。
大介との未来を失うのが怖くて逃げてきたはずなのに、ここにあるのは、それ以上に恐ろしい「心が死んだまま生き続ける日常」でした。
(私は、何を期待してここに来たのかな……)
自嘲気味な思いが込み上げます。
かつての「居場所」であったはずの屋敷は、今やエイミーにとって、呼吸をすることさえ苦しい異物でしかありませんでした。
「お母様、私……行かなくてはいけない場所があります。いえ、まだどこへ行けばいいのかは分かりませんが、ここには居られません」
「……そう。そうね……」
母は悲しげに目を伏せ、それ以上引き止めることはしませんでした。
エイミーは夜の帳が降りた屋敷を、誰にも見つからないように抜け出しました。
けれど、今すぐ大介の待つアパートへ戻る勇気は、まだ持てていません。
彼の命の短さを想うと、どうしても足が竦んでしまうのです。
「……セレナ」
今の自分を受け止めてくれるのは、同じ時間を生き、同じ悩みを分かち合える親友しかいない。
エイミーは闇に紛れながら、数少ない理解者であるセレナの家へと、縋るような思いで足を速めました。




