ep3.ゼノフォビア下層
俺たちは港から下層の農場を歩きながら、周囲の様子を観察した。
確かに商人の言う通り、ここには『奪い合い』の気配が微塵もない。誰もが穏やかで、自分が手に入れた作物を惜しげもなく他人に分け与えている。だが、その光景を見れば見るほど、俺の背筋には薄ら寒いものが這い上がってきた。
「創夜、気づいた? この街、ゴミ一つ落ちていないわ」
セリアが透き通るような声で、周囲の石畳を指差した。
「……ええ。それどころか、この島は沢山人がいるアル。普通に平和にしか見えないネ」
リンが周囲を警戒しつつも、どこか拍子抜けしたように呟いた。
確かに、視界に入るのは穏やかな農村の風景そのものだ。段々畑には、見たこともない色彩の果実が鈴なりになり、黄金色に輝く麦の穂が海風に揺れている。
俺たちは、路傍で麦の束を抱えていた一人の青年に声をかけてみた。
「よう、精が出るな。……この麦、ずいぶん立派だが、この国特有の品種なのか?」
俺が問いかけると、青年は作業の手を止め、一点の曇りもない爽やかな笑顔を向けた。
「ええ、これは『聖麦』といってね、この島の恵みの源さ。これで作るパンは、一口食べればどんな悩みも忘れてしまうほど甘美なんだ。あんたたち、商人なら少し持っていくかい?」
「ああ、助かる。……ところで、あんたはこの農場の責任者か何かなのか?」
俺の問いに、青年は少し不思議そうな顔をして笑った。
「責任者? いえいえ、僕は今日はたまたまここで麦を刈るのが『心地よい』と思ったから、ここを手伝っているだけだよ。昨日は中層のレストランで給仕をしていたし、明日は港で船の修理をするかもしれない」
「……仕事が決まっていないのか?」
俺が眉をひそめると、横から小さな籠を抱えた子供が駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、変なこと聞くね!」
子供は屈託のない笑顔で、籠の中から一つ、ひときわ目を引く果実を取り出した。
それは形こそリンゴに近いが、表面は磨き上げられたラピスラズリのように青く、細かな銀の斑点が星空のように瞬いている。
「これ、『星雫』っていうんだ。下層の農場でも一番甘いんだよ! お兄ちゃんたちも食べてみて」
「……青いリンゴか? いや、それにしては香りが……」
俺は手渡されたその果実を観察する。鼻をくすぐるのは、清涼感のあるミントと、熟した桃を混ぜたような、嗅いだこともない芳醇な甘い香りだ。
その横で、姿を隠し集団になっているため誰が言ったのかがわからないように後ろからその果実のスキャン結果をフィーリアが伝える声が聞こえてきた。
「ビタミン豊富なリンゴみたいな果実ね。毒ではないからそのまま食べて大丈夫よ」
姿を隠しているが、相手には気づかれていなかった。
俺は思い切って、その『星雫』を夜の剣をナイフに変形させ、慣れた手つきで6等分し、切り終わった時には手に持っていたナイフが消える。その一つをサッと皮ごと食べた。
「――っ!? なんだこれ、めちゃくちゃ甘い……!」
口に含んだ瞬間、果肉が淡雪のようにシュワリと溶け、濃厚な蜜のようなジュースが溢れ出した。それでいて後味は驚くほど爽やかで、喉を通る瞬間に冷たい風が吹き抜けたような錯覚に陥る。
「どれどれ、私にも一口……」
「んんっ!」
「 これは……」
「疲れが一気に吹き飛ぶアル! おいしいネ!」
セリアが目を丸くして驚き、次に回されたリンも一口食べて頬を緩ませた。
「俺たちは商人なんだ。この国には初めて来たんだ、案内してくれると助かるんだが……」
俺は再び夜の剣をナイフに変形させ、渡された果実を今度はウサギになるように皮をむいて果実を分けてくれた子供に渡したが、この島にはウサギはいない為、その子供はその形をじっくりと見るには見るが、特に何の反応もなくパクっと食べた。これも、俺にとっては十分な心理学的な洞察の一つに過ぎなかった。
「いいよ! この農場を案内してあげるよ」
そういうと、少年は農場を案内してくれた。
「お兄ちゃん、こっちには『太陽の根っこ』もあるよ! こっちは鍋にすると最高なんだ!」
そこには、斜面を巧みに利用した段々畑が、見渡す限り続いていた。
港のすぐ上から始まるこのエリアは、潮風の影響を受けないよう透明な魔力の障壁のようなもので緩やかに守られているらしい。
「この農場でおすすめの一番旨い野菜ってどれなんだ?」
少年は、誇らしげに広大な畑を見渡した。
「それなら、その大根と、あっちの奥で育てている焔トマトだよ。焔トマトはね、噛むと口の中でパチパチと弾けて、まるでお祭りの後のような温かい味がするんだ。スープにすると、どんなに凍えた心も温まるって言われてるんだよ」
「……お祭りの後のような味、か」
俺は実際にそのトマトを見せてもらった。真っ赤というより、内側から小さな火種が灯っているかのように発光している。
ふと周囲を見渡すと、農場の規模に驚かされる。
下層だけで数千人は優に養えるだけの面積があり、しかもどの作物も虫食い一つない。
黄金色の麦、発光する果実、宙に浮く野菜。それらが整然と、あまりにも完璧な色彩のコントラストを持って植えられている。
「……ねえ、創夜。この農場、雑草が一本も生えていないわ。それに、農具が置いてあるのに、泥がついている人が一人もいない」
ミリィが鋭い指摘をした。
確かに、これだけの人口を支える大農場だ。普通なら泥にまみれ、汗を流す人々で活気という名の泥臭さがあるはずだ。
だが、ここにいる人々は、まるでお洒落なカフェで趣味のガーデニングでもしているかのように、綺麗な服のまま、穏やかな笑顔で作業をしている。
「……創夜、この果実の根元を見て」
セリアがしゃがみ込み、星雫の木の根元を指差した。
土は黒々と肥えているが、そこには肥料の匂いも、生き物の気配もない。
「……ただの土じゃないアル。これ、細かく砕かれた魔石の粉が混ざっているネ。この島全体が、一つの巨大な鉢植えみたいアル……」
リンが気の流れを読み、表情を険しくした。
俺はもう一度、手の中にある半分になった星雫を見つめた。
味は最高だ。野菜も果実も、これまでの旅で見てきたどれよりも理想的で美味い。
だが、この甘美すぎる味が、自然の営みから外れた何かによって作られているのだとしたら……。
「……お兄ちゃんたち、もっと食べる? 向こうにはもっともっと美味しいものがあるんだよ!」
「ありがとう、もう十分だ。助かったよ。お礼にこれをあげる。さっきの果実と似た果実を砂糖で包んだものだ。外側は硬いけど中は果実になっているんだ。日光に当てると溶けてしまうから早めに食べてくれ」
俺は、適当にみんなで作った青リンゴ飴を子供に渡した。
「ありがとう。食べて帰るよ。僕はもう少し農場を手伝ってから帰ろうかな」
案内してくれた少年は、
俺たちは、その完璧すぎる農場をじっくりと観察しながら、この島のさらなる深部、中層へと続く階段へと足を向けることにした。
誰一人として不満を漏らさない数多の農民たちが、ただ静かに、美しく輝く作物を収穫し続けていた。




