第十一話 「判断」
ダンジョンの外へ這い出したとき、世界はすでに深い藍色の闇に包まれていた。
湿った石の匂いから解放されたはずなのに、肺の奥にはまだ死の残滓がこびりついているような気がして、レオンは何度も浅い呼吸を繰り返した。
意識の裏側で、呪いのように文字が躍る。
第8章 パーティ行動時の注意点
8-5 リーダーの役割
リーダーはパーティ全体の行動を統括します。
主な役割は以下の通りです。
・状況判断の最終決定
・行動指示の発出
・優先順位の設定
ただし、すべての状況において完全な統制が可能であるとは限りません。
そのため、各メンバーも以下を意識してください。
・自律的に判断できる状態を維持する
・リーダー不在時の代替行動を想定する
背後で、ギルドへ向かう足音が二つ。
ガルド。そして、レオン。
それだけだった。
最初は確かに四人分あったはずの足音は、今や半分になり、残された空間には埋めようのない空虚が漂っている。
セイルのことを、どちらも口にしなかった。
その名を呼んだ瞬間、かろうじて保っている精神の均衡が音を立てて崩れ、二度と立ち上がれなくなる──。そんな予感があったからだ。
「……ガルドさん」
静寂に耐えかね、レオンの声が漏れた。
「なんだ?」
ガルドは振り返らない。その背中は、仲間を二人失った直後とは思えないほど、冷徹に、毅然としていた。
「……さっきの、分岐のところで」
言葉を選び、慎重に、だが吐き出すように続ける。
「俺……止まれって、そう思ったんです。理屈じゃなくて、何かが、そうしろって」
ガルドの歩みが、ほんの一瞬だけ、路上の影を跨ぐ瞬間に止まった。
「何かが?」
「いや……」
説明できるはずがなかった。脳内に響く正体不明の『声』に従おうとした、などと言えば、錯乱したと見なされるのが関の山だ。
「……気のせい、かもしれない。ただの、直感っていうか」
「……」
ガルドは何も答えず、再び機械的な足取りで歩き出した。その沈黙は、肯定でも否定でもなく、ただ『生き残った』という事実だけを優先する男の冷たさそのものだった。
ギルドの扉を開けると、朝と同じ、不変の光景が広がっていた。
安っぽいランプの光。喧騒。そして、事務的に書類を捌く受付の声。
自分たちの内側でどれほど凄惨な破滅が起きていようとも、この場所は何も変わらない。
「報告だ」
ガルドが受付のカウンターに手を置く。その声に湿り気はない。
「討伐、ゴブリン二体。損耗、一名。セイルだ」
「確認しました」
受付の女性は、瞬き一つせずにペンを走らせる。
「遺体の位置は?」
「第四通路、二つ目の分岐の奥。マーキングは間に合わなかった。だが、場所は特定できる」
「承知しました。回収班へ手配を回します」
ミナの時と、全く同じやり取り。
全く同じ流れ。
命が失われるたびに、この世界では同じ手順が繰り返され、やがてそれは『精算』という名の数字に変換される。
「報酬の精算を行います。こちらに確認を」
差し出された紙を、レオンは見なかった。見る価値もないと思った。
代わりに、血と泥に汚れたポーチから、一冊の本を取り出した。
『新人冒険者行動指針 第7版』。
それを開き、指先でページをなぞる。整った活字。効率的な戦術。
しかし、レオンがその行間を読み取ろうとした瞬間、ページの中からどす黒い意志が噴き出した。
『──無駄だ』
「……」
レオンは奥歯を噛み締めた。
「おい」
ガルドの声が、レオンの意識を現実に引き戻す。
「精算だ。聞いてるのか」
「……ああ、聞いてる」
レオンはゆっくりと顔を上げた。そして、手に持ったマニュアルをガルドの方へ、突きつけるように持ち上げた。
「……なあ、ガルドさん。あんたは、これ。こいつが本当に役に立ってると思うか?」
周囲の冒険者たちの視線が、わずかにこちらに向けられる。
ガルドは、彫刻のような無表情でレオンを見据えた。
「……質問の意味がわからん」
「俺たちは、書いてある通りにやった! あんたの指示に従い、復唱し、正中線を意識して、印をつけた!」
「……」
「全部守ったんだ。行動指針の内容通りに。それなのに……二人は死んだんだ!」
ガルドはしばらく沈黙を守っていた。
やがて、彼は重い口をゆっくりと開き、この日一番の冷徹な、だが真実に満ちた言葉を吐いた。
「当たり前だ」
「……は?」
「マニュアル通りにやって死なないなら、この世に死ぬ冒険者など一人もいない。そんな魔法のような本は存在せん」
ガルドの声は、恐ろしく冷淡だった。
「それは『基礎』だ。戦場に立つための最低限の作法に過ぎん。だが、現場は生き物だ。一秒ごとに『正解』は形を変える。その本に書いてある文字が、お前の目の前の刃を止めてくれるわけじゃない」
「違うって言うのか。……俺たちが信じた『手順』が!」
「……すまない、彼は少し混乱しているようだ。少し話をして、落ち着かせてからまた来るよ」
ガルドは受付の女性に手で謝罪のジャスチャーをしてから、レオンを連れて受付から離れた場所まで移動した。
そして、周囲に聞こえないように、彼の耳元でささやく。
「よく聞け。……そもそもギルドは、冒険者のためにそのマニュアルを作ったんじゃない」
「え?」
「アリバイづくりだ。ギルドが責任から逃れるためのな。……俺はそう睨んでいる」
「な……!」
「このマニュアルがあるから、何か問題が起きても、『ギルドは警告した』、『冒険者がマニュアルを守らなかったからだ』と言い張れるんだ」
「そんな……。それじゃあ、このマニュアルを信じて行動してた俺たちが、バカみたいじゃないですか!」
「そうだ。だから……これからは自分で判断しろ」
ガルドが言い切った。その瞳に、初めて強烈な光が宿る。
「正しい手順かどうかなんてのは、終わった後に記録係が考えることだ。お前の仕事は、生き残ることだ。どんな手段を使ってもな」
『──その通り』
レオンの指先が、わずかに震えた。
頭の中の『声』。
それが今、ガルドの言葉に深く同意した。
レオンは呆然とした顔でしばらくガルドを見つめ、それからマニュアルに目を落とした。
そして、自分の内に響く声に耳を澄ませる。
全部が、同じ結末を指し示している。
だが、意味が違う。
ガルドは、無数の死を乗り越えてきた『経験』から、不確かな現実を語っている。
対して『声』は、最初から結末を知っているような、残酷な『結果』として語っている。
『──選べ』
「……」
レオンは静かに目を閉じた。
腹を裂かれたセイルの絶望した顔が浮かぶ。
血溜まりの中で、「こんなはずじゃなかった」と笑ったミナの声が蘇る。
(「ちゃんとやってたのに……」)
(「なんで……」)
彼女たちの行動が正しかったことを証明するために──。
二人の無念を晴らすために──。
レオンは目を見開いた。
「次は……」
ガルドの目を、真っ直ぐに見返す。
「俺が決める。俺の判断で、動く」
「……」
一瞬の沈黙。
ガルドは、わずかに口角を上げたように見えた。それは嘲笑ではなく、ある種の承認に近いものだった。
「……いいだろう。お前の判断に任せる」
それだけ言うと、ガルドは背を向けてギルドの受付へと戻っていった。
レオンは受付には戻らずに、ギルドの外へと出た。
夜気はさらに冷え込み、夜空には無数の星が冷ややかに輝いている。
ポーチからマニュアルを取り出す。
ページ。文字。整ったレイアウト。
すべてはそこにある。だが、もう、文字を追う必要はなかった。
『 ──俺を信じろ』
脳内に響く声に、レオンは心の中で、はっきりと答えた。
「……ああ。お前を信じるよ」
その声は、もう迷っていなかった。
レオンはマニュアルを乱暴にポーチへ押し込むと、暗い夜道へと力強く一歩を踏み出した。
背後のギルドから漏れる光が、彼の影を長く、鋭く、前方の闇へと伸ばしていた。




