第十話 「手順」
ミナを失った後の迷宮は、底知れぬ静寂に包まれていた。
かつては彼女の軽口や、装備が触れ合う賑やかな音がそこかしこに響いていたはずなのに、今はただ、重苦しい湿気を含んだ闇が通路を埋め尽くしている。
二人きりになった背後。セイルの足音だけが、やけに大きく、そして心許なく響いていた。
レオンの脳裏に、またあの活字が滑り込んでくる。
第8章 パーティ行動時の注意点
8-2 復唱と確認
指示や情報を受け取った際は、必ず復唱を行い、内容を確認してください。
例:「右通路へ移動」→「右通路へ移動、了解」
また、少しでも不明点がある場合は即座に聞き返して、理解できるまで確認を行ってください。
この手順により、以下の問題を防止できます。
・指示の誤解
・認識のズレ
・伝達ミスによる行動不一致
パーティ行動においては、情報の正確性が生存に直結します。
(……復唱、か)
セイルが、震える吐息とともに小さくつぶやいた。
その声は、広すぎる通路の闇に吸い込まれ、霧散する。前を歩くガルドの背中は、以前よりも頑なで、寄せ付けない拒絶の気配を纏っていた。
「なあ、セイル」
セイルが、レオンの袖を引くように声をかけた。
「……なんです、レオン」
レオンは前を見据えたまま、感情を押し殺して答える。
「お前、さ……」
少しだけ、迷うような間があった。
「前にこの行動指針を見た時、何か感じてたよな?」
「……」
レオンは答えなかった。
だが、その強張った肩と、固く結ばれた口元が、何よりも明確な回答だった。
「……やっぱりか。俺だけじゃないんだな」
セイルは自嘲気味に、短く息を吐いた。
「僕も、少しだけ……。文字を追っていると、頭の奥に別の文字が浮かんでくるような感覚があります」
レオンが、弾かれたように振り返った。
「セイルにも見えたのか? あの、余白の書き込みが」
「いえ……」
セイルは言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「はっきりとは見えません。ただ、読んでいる最中に、なんとなく別の文字が浮かんでくるような感じがします。あとは、誰かが耳元でささやいているような感覚が……」
レオンの心臓が、早鐘を打った。
(……俺と同じだ)
「でも、気のせいかもしれません。ミナがあんなことになって、少し気がおかしくなっているのかも……」
セイルは、ひきつった苦笑いを浮かべた。その瞳の奥には、底知れぬ恐怖が漂っている。
『──気のせいじゃない』
その瞬間、レオンの脳内に冷徹な声が響いた。
レオンは強く目を閉じた。
(──言えない。それを口にしたら、もう戻れない気がする)
「……進むぞ。無駄口を叩くな」
ガルドの低い声が、二人を現実に引き戻した。
前方に現れたのは、T字の分岐点。
「右だ」
「右、了解」
レオンが、教本をなぞるように忠実に復唱する。
「右にいきます」
セイルも続く。
正しく、手順通りに一歩、また一歩と闇を踏みしめる。
異様なほどに静かだ。魔物の息遣いも、風の音もしない。
「……何も出ないですね」
セイルのつぶやきが、静寂を裂く。
「その方がいい。余計な消耗を防げる」
ガルドが淡々と返す。
さらに進み、再び分岐が現れる。
「左に行くぞ、いいな?」
「はい」
すべてが、マニュアルの規定通り。
すべてが、生存率を上げるための正しさに守られている。
そのときだった。
『──止まれ』
レオンの足が、凍りついたように止まった。
「……」
「どうした? 不満なのか?」
ガルドが苛立ちを隠さず振り返る。
「……いえ。なんでもありません」
(違う。今は違う。指示は『左』だ。ガルドの指示に従い、復唱し、確認し進む。これが正しい手順だ。この『声』こそが、俺を狂わせようとしている不純物なんだ)
「……左に行きます。すみません」
レオンは、自分を縛るように歩き出した。
頭の中に響く声を無理やり沈め、闇の中へ足を踏み入れる。
──その瞬間。
「……!」
背後で、嫌な音がした。
硬い石がこすれる音と、衣擦れの音。
レオンは弾かれたように振り返った。
そこには、ただ暗い通路が続いているだけだった。
「……セイル?」
さっきまで、すぐ後ろにいたはずのセイルの姿がない。
足音一つなかった。叫び声さえ、聞こえなかった。
「おい、どこへ行った! セイル!」
ガルドの叫びが空虚に響く。
返事はない。
ただ、冷たく湿った空気が、そこにあった存在をあざけ笑うように撫でていく。
『──だから言った』
「……くっ!」
レオンは耳を塞ぎたくなった。
「どこだセイル! 隠れてないで返事をしろ!」
ガルドが大剣を構え、闇を睨みつける。
そのとき。
「……こっち……レオン……助け……」
遠く、分岐の向こう側から、かすかな掠れ声が届いた。
「レオン、聞こえたか?」
「……ええ、セイルです!」
二人は全速力で走り出した。
声のした方へ、迷宮の構造を無視するように、死に物狂いで角を曲がる。
──そして、見つけた。
セイルは、通路の壁にもたれかかるようにして、座り込んでいた。
「セイル!」
駆け寄ったレオンの視界に、どす黒い赤が飛び込んできた。
腹に深い切り傷。
彼の自慢だったローブが、無残に裂け、大量の血を吸って重く垂れ下がっている。
「レオン……」
「しっかりしろ、セイル! 今、治療を……」
レオンが、傷口を押さえようと手を伸ばした。
『──間に合わない』
「……!」
指先が止まる。
その『声』は、宣告だった。
「……なんで」
セイルが、虚ろな瞳でレオンを見上げた。
その呼吸は、すでに浅く、喘ぐようなものに変わっている。
「……ちゃんと、やったのに。マニュアル通りに……」
「喋るな、セイル!」
「……復唱も……確認も。全部やったのに……」
言葉が、ゴボリと溢れた血に混じって途切れる。
「なんで……僕だけ……」
その問いに答える者は、いなかった。
セイルの瞳から光が失われ、瞼が重く閉じていく。
脱力した彼の体から、温もりが急速に奪われていった。
ガルドが、ゆっくりと立ち上がる。
その表情は、もはや怒りさえ通り越し、無機質な何かに変質していた。
「……戻るぞ。これ以上の探索は不可能だ」
(まただ。また、この一言ですべてを切り捨てる……)
レオンは動けなかった。
頭の中に残っているのは、あの時の警告。
『──止まれ』
(あの時、もし、俺があの『声』に従って止まっていれば──。もし、ガルドの指示ではなく、あの声の指示を選んでいれば──。セイルは、死なずに済んだのだろうか?)
『──そうだ』
「……」
『彼を助けられた』
冷酷な『声』が、レオンの思考を突き放す。
レオンは、ゆっくりと顔を上げた。
セイルの遺体が、石畳の上に静かに横たわっている。
彼は、正しく動いた。
行動指針を信じ、手順を守り、仲間と声を掛け合った。
この『第7版』が、生存率を上げるとうたう通りの行動を完遂した。
──それでも、彼は死んだ。
マニュアル。
正しさ。
命の価値。
すべてが、最初から少しずつ、致命的にずれていたのだ。
レオンは、血に汚れた自分の手を見つめた。
その指先は、もう震えてさえいなかった。




