第九話 「精算」
迷宮の出口が近づくにつれ、空気の密度が変わる。淀んだ死の臭いが薄れ、代わりに雨を含んだ土の匂いがかすかに流れ込んできた。
前方には、針の穴のような光が見える。あれほど焦がれた『外』の光だというのに、今のレオンにはそれがひどく白々しいものに感じられた。
「……ここでいい」
出口まであと数十メートルという、通路の隅。ガルドが唐突に足を止めた。
松明の火が消えかけ、周囲に中途半端な影が落ちる。
セイルが、背負っていたミナの体をゆっくりと下ろした。
事切れてからまだ一時間も経っていないはずなのに、彼女の体は驚くほど重く、そして氷のように冷たくなっていた。
「……ここに置くのか」
レオンの声は、自分でも驚くほど平坦で、感情の起伏を失っていた。怒りも悲しみも、迷宮の暗闇に吸い取られてしまったかのようだった。
「運べない。これ以上は体力の無駄だ」
ガルドの回答は、呼吸をするのと同じくらい自然な、事務的な響きだった。
「……でも、あと少しだ。外まで連れていける」
「外へ出したところで、ギルドの規定は変わらん。ここなら、回収班の巡回ルートに入っている」
「本当に、来るのか?」
レオンが問い返すと、一瞬の沈黙が流れた。ガルドの視線がミナの青ざめた顔を通り過ぎ、闇の奥へと向けられる。
「……来る時もある」
それは『来ないこともある』という事実の裏返しだった。
レオンは何も言えなかった。
ミナは、穏やかに目を閉じている。最後に浮かべた「こんなはずじゃなかった」という微かな驚きを含んだ表情のまま、彼女の時間だけが凍りついている。
ふと、腰のポーチが重く感じられた。
レオンは憑りつかれたようにマニュアルを取り出し、ページをめくる。
第12章 死亡時の処理および手続き
12-2 遺体の回収
遺体の回収は、任務遂行に支障がない場合に限り実施される。
安全の確保が困難な場合、回収は行われない。
12-4 遺体回収費用
遺体回収には費用が発生する。
当該費用は、故人の資産または保証金より精算される。
整った活字。冷徹な文章。
それを読んだ瞬間、文章の余白にあの文字が浮かび上がってきた。
『──来ない』
「……」
レオンは、物言わぬミナを見つめる。
「……来ない」
「何か言ったか?」
ガルドが振り返るが、レオンは首を振った。
言えない。言っても意味がない。ここに書かれているのは『行動指針』という名のルールだけのはずだからだ。
「行くぞ。立ち止まるな」
ガルドが背を向け、光の方へと歩き出す。
セイルは、最後に一度だけミナの肩に手を置き、唇を噛んだ。
「……ごめん」
それが自分を責めているのか、それともこの不条理なシステムを謝罪しているのかは、誰にもわからなかった。
レオンもまた、立ち上がる。
足は鉛のように重かったが、動けないほどではない。それが自分でも恐ろしかった。
最後にもう一度だけ、振り返る。
壁際に横たわる、小さなしこりのような影。
さっきまで笑い、話し、声を枯らしていた少女の成れの果て。
彼女は、ただそこに『物』として置かれていた。それだけだった。
ダンジョンの外に出ると、夕暮れ時の光が目に差し込んできた。
冷たい風が頬を叩き、肺の中の汚れた空気を入れ替えていく。
さっきまで間近にあった死の感触が、急速に現実味を失い、遠い記憶の彼方へ押しやられていく。
「……終わったな」
ガルドが吐き捨てるように言った。
終わった。
その言葉の虚無感に、レオンは愕然とする。
仲間の一人が命を落とし、自分は得体の知れない『声』を頭に宿した。
それでいて、世界は何事もなかったかのように夜を迎えようとしている。
ギルドに戻ると、酒場の喧騒と煮込み料理の匂いが鼻をついた。
受付に向かうと、ガルドが淡々と事務報告を始める。
「討伐、ゴブリン三体。損耗、一名」
「……確認しました」
受付の女性は、同情の欠片も見せず、流れるような手つきで書類を整理していく。
「遺体の位置は?」
「入口から三つ目の通路、左壁際。マーキングは消失。だが座標は確定している」
「承知しました。回収班に連絡を入れますが、状況次第では後回しになることをご了承ください。では、精算を行います」
出されたのは、一枚の精算書だった。
レオンはそこに並んだ数字を追う。
報酬。
そこから引かれる、諸経費。
「……これだけ?」
「はい。医療費、予備装備の使用料、および管理費を差し引いております。なお、遺体回収費用については、故人の保証金より充当予定です」
「回収費用?」
レオンの声が、怒りよりも困惑で震えた。
「遺体搬送、およびその後の処理にかかる費用です。冒険者契約に基づき、これらはすべて故人の負担となります」
「……死んでからも、まだ金を取るのか?」
受付の女性は、困ったように微笑んだ。
「契約ですから。彼女も署名したはずですよ。このマニュアルの第10章を理解した上で」
言葉が出ない。
ガルドは何も言わず、差し出された少額の硬貨を懐にしまった。セイルはただ、自分の足元を見つめていた。
「問題なければ、確認の署名を……」
レオンの前に、ペンが置かれる。
自分たちが生きて帰ってきたことの証明と、仲間が死んだことの精算。
驚いたことに、レオンの指先は全く震えていなかった。
慣れ。
あるいは、麻痺。
ペンを取り、自分の名前を書き込む。
その瞬間、耳の奥で、あの声のささやきが聞こえた。
『──慣れる』
「……」
レオンは無言でペンを置いた。
手続きは終わった。ミナという存在は、これで完全にギルドの帳簿上の『数字』になったのだ。
「以上で手続きは完了です。お疲れ様でした。……次もまた、よろしくお願いしますね」
受付の微笑みは、最初に出会った時と少しも変わっていなかった。
ギルドを出ると、街は夜の闇に包まれていた。
街灯の光が石畳を照らし、家々からは楽しげな夕食の笑い声が漏れてくる。
「……なあ」
レオンが、立ち止まったまま言った。
「ミナのこと、俺たち……」
「仕事だ」
ガルドは歩みを止めず、背中を向けたまま言い切った。
「それ以上でも、それ以下でもない。感傷で飯は食えん。……割り切って、次へ進め」
セイルも何も言わず、闇の中に消えていく。
レオンだけが、その場に取り残された。
ポーチの中で、マニュアルが擦れる。
それを取り出し、月明かりの下で開く。
何度も見たはずのページ。
だが今はもう、あの不吉な手書きの文字も、震えるような警告も、どこにも見当たらなかった。
そこに広がるのは、白く清潔な余白と、非の打ち所がないほど完璧な活字の列だけ。
『──普通だ』
脳内に聞こえてきたその『声』が、今のレオンには最も正しく感じられた。
仲間が死ぬのも、その死が金で精算されるのも、残された者が明日もまた戦うのも。
すべては、この世界における『普通』なのだ。
「……ふう」
レオンは小さく息を吐いた。
そして、今度は迷うことなく、マニュアルをポーチの奥深くへと仕舞い込んだ。
明日、自分はまたここへ来るだろう。
そしてまた、この『指針』をなぞりながら、死と隣り合わせの日常を、ごく普通にこなしていくのだ。
遠くで、夜鳥が一度だけ鋭く鳴いた。
それは、誰かの慟哭のようにも、あるいはただの合図のようにも聞こえた。




