第八話 「声」
暗闇の奥から、無数の『何か』が這い寄る音が響く。それは硬い爪が岩を削る音であり、粘膜が擦れ合う不快な湿り気を帯びた音だった。
松明の炎が、恐怖を煽るように激しくはぜる。
レオンの脳裏に、あの無機質な活字が強制的に浮かび上がる。
8-1 行動時の発声
パーティ行動においては、各自の行動や状況を周囲に伝達することが重要です。
何らかの行動を行う際や状況が変化した際は、必ず簡潔な発声を行ってください。
「……三、いや四か。いや、もっといるな」
ガルドのつぶやきが、冷え切った空気に混じる。彼は大剣の柄を握り直し、岩のような威圧感を放った。
「固まれ。背中を預けろ、絶対に離れるな!」
レオンたちは、訓練で叩き込まれた通りに隊列を組む。前衛にガルド、その半歩後ろにレオン。後方にミナとセイル。互いの吐息が聞こえるほどの距離。それが唯一の安らぎだった。
「来るぞ!」
闇から影が現れる。
ゴブリン。一体、二体、三体……四体。
醜悪な顔を歪め、ぎらついた瞳が松明の光を反射する。
「右だ! レオン、受けろ!」
ガルドの怒号が響く。レオンは反射的に右へ踏み込んだ。
頭に刻まれた『正面に立つな』という、あの声の教え。マニュアルにはない、だが生存に直結する違和感を優先する。
『──聞こえない』
またあの声が響いた。だが、今は無視する。目の前の敵だけに集中し、ガルドの剣筋が作る隙間を埋めるように刃を突き出した。
剣がゴブリンの喉を貫き、確かな手応えが腕に伝わる。
「いいぞ、レオン! その調子だ!」
ガルドの称賛が聞こえた。連携は取れている。マニュアル通り、情報の共有は完璧だ。そう確信した、その瞬間だった。
「今から強化魔法かけるよ! ガルド、ちょっと下がって!」
背後からミナの澄んだ声が響いた。
彼女は杖を掲げ、自身の魔力を編み上げようとしている。その声ははっきりと、レオンの耳に届いていた。
だが。
最前線のガルドは、ピクリとも動かない。
「……?」
レオンの胸に小さな刺が刺さる。ミナの指示は明確だった。ガルドが半歩下がれば、彼女の魔法は確実に発動するはずだ。
「ガルド! そこじゃ魔法がかからないよ。下がってってば!」
ミナがもう一度叫ぶ。焦燥が混じった、切実な声。
それでも、ガルドは猛然と剣を振り回し続け、一歩も引こうとしない。まるで行く手を阻む壁のように、頑なにその場に立ち尽くしている。
「……聞こえてない?」
セイルの焦るようなつぶやき。その直後、レオンの思考を冷酷な響きが塗りつぶした。
『──そうだ。聞こえていない』
「……!」
背筋を氷の指でなぞられたような悪寒。
レオンは叫ぼうとした。『ガルド、後ろだ、ミナの声を聞け!』
だが、言葉が喉に張り付いて出てこない。
その隙を見逃すほど、迷宮の住人は慈悲深くなかった。
ガルドに注意を引きつけられていたその影で、一体のゴブリンが壁を蹴り、ミナの死角へと躍り出た。
「え……?」
ミナの呆然とした声。
振り下ろされる、錆びたナイフ。
「ミナ!」
レオンが手を伸ばす。だが、その指先はあと数センチ届かない。
鈍い音がした。肉を断ち、内臓を裂く、重く湿った音。
ミナの体が、糸の切れた人形のように大きく揺れた。
「……あ」
その声は、驚くほど軽かった。
彼女の白い服に、まるで紅い花が咲いていくように、ゆっくりと、だが確実に血の染みが広がっていく。
「おい、何をやってる! 隊列を乱すな!」
ようやく振り返ったガルドの言葉は、あまりにも残酷に、そして決定的に遅すぎた。
ゴブリンはすでに目的を果たし、闇の中へと身を引いていた。
「このっ……!」
怒りに任せてレオンが剣を振る。逃げ遅れたゴブリンの胴体を両断し、絶命させる。
だが、訪れた静寂は、死よりも重かった。
ミナが、その場に力なく座り込んだ。
彼女の指の間から、止めどなく溢れ出す鮮血が床の石畳を濡らしていく。
「……はは、なんか……変な感じ」
ミナは笑っていた。青ざめた唇を震わせ、自分のお腹に刺さった現実を、どこか他人事のように見つめている。
「ミナ、しゃべるな! セイル、傷口を押さえろ!」
ガルドが駆け寄る。その顔には、先ほどまでの冷静さは微塵もなかった。
「いいぞセイル! そのまま、回復魔法をかけろ!」
「あ、ああ……」
セイルがミナの傷口を手で押さえながら寄り添う。彼の手は、見たこともないほど激しく震えていた。魔法の詠唱が、震える唇の間で何度も霧散する。
レオンは、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
網膜に焼き付いている。ミナは確かに叫んでいた。
「強化魔法かける」と。「下がって」と。
自分には聞こえていた。セイルにも聞こえていた。
なのに、ガルドだけには届かなかった。
『だから言った。聞こえないと──』
あの声が、あざけ笑うようにささやく。
「……なんでだよ。なんで聞こえないんだよ!」
「レオン、お前は周りを見ろ!」
ガルドの叱咤が飛ぶ。
「いつ次の敵が来るかわからん。お前は警戒だ!」
レオンは必死に周囲の闇を警戒する。だが、もう敵の気配はなかった。
聞こえるのは自分たちの荒い呼吸音と、そして、ミナの今にも消え入りそうな浅い呼吸の音だけ。
「……ねえ、レオン」
小さな、掠れた声がレオンを呼んだ。
視線を落とすと、ミナが虚ろな目でこちらを見上げている。
「ちゃんと……言ったよね」
「……ああ、聞こえてたよ」
「聞こえてたよね。私……声、出したよね……」
レオンは言葉を詰まらせた。
「マニュアル通りに発声した」と、彼女は言いたいのだ。自分は正しく行動したはずだと。
「……なのに、なんで……」
その問いは、誰に向けられたものだったのか。
無視したように見えたガルドか。救えなかったセイルか。
それとも、すべてを聞いていながら、何もできなかった自分か。
ミナの瞳から、急速に光が失われていく。焦点が合わなくなり、視線がどこか遠い場所を彷徨い始める。
「……やだなあ。こんな……はずじゃ、なかったのに……」
最後の言葉は、吐息に混じって消えた。
彼女の手が床に落ち、指先に付いていたチョークの白い粉が、血溜まりの中に溶けて消えていく。
動かない。
セイルの手が、止まった。
「……」
誰も、何も言えなかった。
ただ、松明が燃えるパチパチという音だけが、虚しく響いている。
ガルドが、重い腰を上げた。その顔は、鉄の仮面のように冷たく、固く閉ざされていた。
「……遺品を回収する」
短い言葉。そこには、仲間を失った悲しみよりも、状況を処理しようとする義務感だけが漂っていた。
「撤退だ。任務は中止する」
「……え」
レオンが顔を上げる。
「まだ……連れて帰れば、なんとかなるんじゃ……」
「無理だ。死人は歩けん。これ以上ここにいても、全滅するだけだ」
ガルドは言い切った。
それは、あまりにも正しく、論理的で、マニュアル通りの判断だった。
だが、レオンは動けなかった。
腰のポーチの中のマニュアルが、ミナの血を吸って重くなったような気がした。
『──聞こえない』
闇の奥から、あるいは自分の内側から──。
その言葉だけが、呪いのように、はっきりと刻み込まれた。




