第十二話 「選択」
迷宮の深淵から、大気を震わせるような重低音が響いてきた。それは生物の咆哮というよりは、巨大な岩石が擦れ合うような、あるいは奈落の底で何かが目覚めたような、不吉な轟きだった。
「……来るぞ」
ガルドが、低く鋭い声で警告を発した。その手には、幾多の死線を潜り抜けてきた大剣が固く握られている。
レオンは何も答えなかった。
もはや、ポーチの中のマニュアルに触れる必要さえ感じない。あの『第7版』に記された文字など、今のレオンにとっては、死にゆく者がすがるための紙屑に過ぎなかった。
『──下がれ』
頭脳を支配するその冷徹な響きに、レオンの肉体は、あたかも自分の意志を失った機械のように従った。
一歩、音もなく後ろへ。
──その刹那。
暗闇を切り裂いて飛び出してきた『影』が、レオンが先ほどまで立っていた空間を猛然と通り過ぎた。壁の石材が、風圧だけで削り取られるほどの衝撃。
「……!」
巨大だった。
ゴブリンとは比較にならない質量。黒い剛毛に覆われた四肢と、凶悪なまでの筋肉の隆起。
「ちっ! ……上位個体か」
ガルドが、自身の不運を呪うかのようにつぶやいた。
敵が吼える。狭い通路が震え、鼓膜が悲鳴を上げる。距離は一瞬で消失した。
「散開しろ!」
ガルドの指示が飛ぶ。
レオンは反射的に真横へ跳んだ。石壁を蹴り、宙を舞いながら剣を引き抜く。
着地と同時に、敵の挙動を網羅するように視線を走らせる。
『──正面に立つな』
レオンは無言のまま、敵の死角へと回り込む。
ガルドが正面を引き受け、大剣で巨躯を受け止めた。爪と鉄が激突し、火花が暗闇をオレンジ色に焼く。
「……ぐっ!」
ガルドの腕が、見たこともないほどに震えていた。
上位個体の放つ圧倒的な腕力が、ベテランの戦士を紙切れのように押し流そうとしている。
「レオン!」
ガルドが顔を歪め、叫んだ。
「横から入れ! こいつの意識を散らすんだ!」
好機。
マニュアル通りの連携。
ガルドを救い、勝利を掴むための、唯一無二の最適解。
──だが。
『──行くな』
レオンの足が、床に張り付いたように止まった。
「……!」
一瞬、レオンの中で、かつての『冒険者レオン』と、『今のレオン』が衝突した。
ガルドを見る。敵を見る。
位置、呼吸、筋肉の収縮。
すべてが、次の瞬間に訪れる破滅を予見させていた。
『 ──手を出すな』
「……」
レオンは、動かなかった。
動かないことを『選んだ』。
次の瞬間。
敵の巨大な腕が、ガルドの大剣を弾き飛ばした。
受け流し損ねたガルドの体勢が大きく崩れ、その無防備な胸元が晒される。
「……!」
レオンは、助けに踏み込むどころか、さらに後ろへ下がった。
血肉を分け合った仲間を、獲物を狙う肉食獣の前に置き去りにするように。
『──それでいい』
頭の中の声が、甘美に肯定する。
ガルドは死力を尽くして体勢を立て直したが、その代償として大剣は折れ、肩の肉が抉れていた。
「おい……どうした、レオン!」
レオンは無表情のまま、距離を取る。
敵の興味が、死に体のガルドから、冷然と立ち尽くすレオンへと移った。
濁った瞳が、レオンを捉える。
それは、次の標的を見据える目だ。
『──逃げろ』
「……」
一瞬。ただの一瞬だけ、レオンは地面に這いつくばるガルドを見た。
彼はまだ戦おうとしている。折れた剣の根元を握り、立ち上がろうとしている。
──だが。
『──見捨てろ』
レオンは、剣を鞘に戻した。
もう、戦う必要さえない。
そして、走った。
ガルドに背を向け、出口へと続く一本道へと、ひたすらに。
「レオン! 貴様、レオン!」
ガルドの、裏切られた絶望と怒りが混じった絶叫が背中に突き刺さる。
だが、振り返らない。
耳に届くのは、自分の規則正しい足音だけ。
敵がガルドを屠る音さえ、遠ざかっていく。
ガルドの声が、最後には掻き消え、迷宮に静寂が戻る。
『──それでいい』
止まらない。
止まってはいけない。
レオンは光の方へ、地上の方へ、ただひたすらに四肢を駆動させた。
出口を飛び出す。
夕暮れを過ぎた紫色の光が、視界を刺す。
冷たい外気が、肺の中の呪われた沈黙を吹き飛ばした。
息が荒い。心臓が破裂しそうだ。
だが、自分だけは生きている。
「……」
レオンは崩れ落ちることもなく、ゆっくりと呼吸を整えた。
汗を拭い、ポーチの中にある、あの分厚い革表紙を取り出す。
『新人冒険者行動指針 第7版』のページをめくる。
以前見た時には無かった『撤退判断』の項目がそこにはあった。
第7章 ダンジョン探索の基本
7-7 撤退判断
任務の継続が困難と判断される場合、速やかに撤退を行います。
撤退の判断は、現在の状況および戦力を総合的に考慮し、実施してください。
整然と並ぶ、合理的で冷酷な文字。
もはや、この本はレオンにとっての『頭脳』そのものだった。
『──置いていけ』
「……」
レオンは、初めて自らの意志でポーチから羽ペンを取り出した。
指先は、岩のように硬く、全く震えていない。
マニュアルの余白。
汚れ一つない、真っ白な紙面を見つめる。
そこに、自分の手で言葉を刻みつける。
『置いていけ』
書き終えた瞬間、ペン先が止まった。
そのすぐ下に、レオンが書いたのではない『文字』が、まるで古い傷跡が浮き出るように滲み出してきた。
『遅い』
「……」
その文字は、ミナの死を、セイルの死を、そして今のガルドの死を、すべてひとまとめに断罪していた。
だが、レオンに驚きはなかった。
恐怖も、悲しみも、もはや遠い国の出来事のようにしか感じられない。
「……わかってる」
小さく、だが確かな声で、彼はマニュアルの中の『先導者』にうなずいた。
ページを閉じる。
それを大切に、慈しむようにポーチに収める。
見上げた空は、完璧な闇に支配されていた。
「だから次は……」
誰に向けてでもない。
死んだ仲間たちへでも、置き去りにしたリーダーへでもない。
ただ、自分の中に唯一残った『生存』という名の本能へ向けて。
「……もっと早くやる。迷う時間を、削る」
『──それでいい』
声が、満足げに響いた。
レオンは一人、夜の静寂へと歩き出した。
その歩調は、驚くほど軽く、そして迷宮の影のように鋭かった。




