第3話③ しらす丼 ― 朝の行列、次の波
最初のお客さんは、長靴だった。
「開いとる?」
竿を肩に担いだ男が立っている。潮の匂いが、服に残っている。
足元のバケツが小さく鳴って、俺はそれだけで朝だと分かる。
「やってます」
男は黒板を読んで、眉を上げた。
「二段……って、なんや。丼が二つ出るんか?」
「いや、丼は一つです。半分くらい食べたら声かけてもらって、釜揚げを上からのせます」
「へえ。あとから熱いの足すんや。おもろいこと考えるな」
男は笑って、カウンターを指で軽く叩いた。
「ほな、それで。朝飯にちょうどええわ」
寧々は無言で丼を組む。
炊きたての米をよそう。湯気が顔に当たる。
生しらすを、息を止めるみたいに薄く広げる。
透ける銀が、白い米の上に散らばる。
真ん中に黄身。
橙の丸が、銀の上でぷるんと揺れて、静かに座る。
男は覗き込んで、少しだけ声を落とした。
「……きれいやな。こういうの、朝に食うと、変に元気出るやつや」
俺は丼を渡しながら言う。
「最初はこのまま食べてください。黄身くずして」
「了解。くずすのは得意や」
男は箸を割る音だけを鳴らして、黄身をくずした。
橙が銀の上に広がって、丼の色が少し変わる。
ひと口目を口に入れた。
すぐには喋らない。
噛むというより、舌で確かめるみたいにして、ゆっくり飲み込む。
「……うまいわ。塩が前に出てへんのがええ」
二口、三口。
朝の静けさに、箸の音だけが落ちる。
半分ほど進んだところで、男が顔を上げた。
「そろそろ、釜揚げのせてもらってええか?」
「はい」
俺が合図を送ると、寧々が小鍋を持ち上げる。
湯気が立つ。
釜揚げしらすが、白の上に落ちる。
冷たかった丼の上で、温かいものが広がる。
黄身が熱を受けてゆるくほどけて、橙が薄く溶け出す。丼の色が、少し深くなった。
男は笑って言った。
「おお……見た目が変わった。これ、ずるいな」
もう一口。
「……あ、あったかい。口の中で、急に丸うなるな」
「二段目です」
俺が言うと、男は頷いた。
「なるほど。最初は軽い。後半で腹に落ちる。朝に合わせてるわ」
最後に、寧々が玉ねぎをひとつまみ落とす。
ふわり。
薄い白が乗る。
シャキ、と小さな音。
男が目を細める。
「それ、淡路のやつか。甘いんよな、ここ。……やるなぁ」
丼の底が見えるまで、男は黙って食べた。
食べ終えて、ぽつりと言う。
「朝から、ええもん食うた。ほな、海戻るわ」
その言い方が、いちばんうれしかった。
それから、店は少しずつ賑やかになった。
釣り帰りがもう二人。
仕事前の若い男が、コーヒー片手に覗き込む。
「二段って何ですか」
「半分で声かけてください。釜揚げ、上からのせます」
「熱いの足すんだ。最高っすね」
観光っぽい夫婦は、黒板の前で相談している。
「半分で声かける、って書いてあるね」
「声かけるの、ちょっと緊張するね」
「大丈夫、俺が言う」
俺は笑って頷いた。
「遠慮せんでください。こっちが待ってます」
声がかかるたびに、湯気が立つ。
湯気が立つたびに、車の中が"朝ごはんの匂い"で満ちる。
寧々は急がない。
急がないのに、止まらない。手が静かに、ずっと動いている。
俺は合間に何度も箱を開けて、閉める。
氷の下の白が、どんどん浅くなる。
気づかないふりをしても、目は勝手に数を数える。
——足りない。
俺が小声で聞くと、寧々は答えない代わりに、指を立てた。
三本。
「……あと三食」
胸のあたりが、また少し縮む。
外には、まだ人がいる。
でも並び方がやさしい。急かす雰囲気じゃない。朝だからだ。
俺は扉を開けて言った。
「すみません! 本日分、あと三食で終わりです!」
「えー、早い!」と声が上がる。
でも誰も怒らない。残念そうな顔が、少し並ぶだけだ。
「次、来ます」と言ってくれる人までいる。
——最後のお客さんは、若い女の人だった。
手袋をしたまま、丼を両手で受け取る。
「半分で言えばいいんですよね」
「はい。全然、遠慮しないでください」
女の人は笑って頷いた。
最初のひと口で、目が少し丸くなる。
二口目で、肩が落ちる。
"うまい"の形だ。
半分で、顔を上げた。
「あの……釜揚げ、のせてもらえますか?」
「はい」
俺が頷くと、寧々はもう湯気を持っている。
釜揚げが落ちる。
黄身がほどける。
冷たかった丼の上で、温かいものが広がって、橙が薄く溶け出す。
丼の色が、少し深くなる。
最後に、追い玉ねぎ。
ふわり。シャキ。
女の人は小さく笑った。
「……これ、反則」
それを聞いたとき、寧々の口元がほんの少しだけ緩んだ気がした。
気のせいかもしれない。でも、そういうのがうれしい。
丼が空になって、店の中が急に静かになる。
俺は黒板に書く。
——本日分、終了しました。
時計を見る。
昼にはまだ遠い時間だ。
「早いなあ」
俺が言うと、寧々は手を拭きながら、いつも通りの顔で言う。
「足りない日」
「うん」
「上げた」
「……満足のほう?」
寧々は小さく頷いた。
片付けの途中、鍋の底にほんの少しだけ釜揚げが残っているのが見える。
黄身の器にも、薄い黄色が張りついていた。
玉ねぎの器には、端がふわっと残っている。
寧々が小さな椀を出す。
米をひと口分。
生しらすを、盛れない端だけ。
透ける銀が、白い米の上に数本だけ落ちる。
鍋底の釜揚げをひとさじ。湯気ごと落とす。
生の白と釜揚げの白が、同じ椀の中に重なった。
最後に、追い玉ねぎ。
俺と、半分こ。
まずひと口、そのまま。
冷たいしらすが舌の上でほどけて、黄身がとろりと絡む。甘い。軽い。
次のひと口、釜揚げのほうを多めに。
温かさが舌に乗った瞬間、甘みの輪郭が丸くなる。さっきと同じ素材なのに、口の中が全部違う。
最後に玉ねぎ。
シャキ、と鳴って、甘みがかちっと締まる。
「……うまいな」
俺が言うと、寧々は目を細くした。
「上がった」
それだけで、今日が報われた気がした。
片付けをしていると、朝の魚屋のおばちゃんが通りかかった。
「もう終わり?」
「はい。早いです」
おばちゃんは黒板を見て、口を尖らせる。
「そら早いわ。今日、ほんま少なかったもんなぁ。悪かったなぁ」
「いえ、むしろ助かりました。二段にして、なんとか……」
俺が言いかけると、おばちゃんは手をひらひら振った。
「なんとか、ちゃうわ。あんたらの工夫や。
しらすって、こういう食べ方できるんやな。うちの白が、えらい格好ようなってたで」
その言い方が、妙にうれしい。
おばちゃんはもう一回黒板を見て、にやっと笑う。
「淡路の次は、鳴門やね」
俺は手を止める。
「鳴門?」
「わかめ。今ええよ。潮、速いからな。しゃぶしゃぶしたら、色変わるで」
寧々が顔を上げる。
少しだけ、目が細くなる。
「海の緑」
おばちゃんは頷いた。
「鳴門は、鳴るで」
渦の話や、と笑う。
寧々は何も言わない。
でも、その目はもう、白から離れている。
俺は車に乗る前に、スマホを開く。
写真は一枚。
黄が沈んだ白と、湯気の立つ白。
その上に、透ける玉ねぎ。
少しだけ迷って、いつもの形式で打つ。
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【PHOTO】二段しらす丼
冷たい海から、湯気へ。
生しらすと釜揚げ。
本日、完売。
——次は鳴門のわかめ。
#旅する台所号 #今日の一皿 #海の朝
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送信。
エンジンをかける。
今日の白は、もう終わった。
次は、緑。
台所号は、橋の向こうを目指す。




