第4話① 鳴門わかめの潮汁と鯛めしおにぎり——渦の音
──徳島県鳴門海峡。
轟音が先に来た。
白い泡が裂けて、また戻る。風が強い。潮の匂いが喉に残る。しょっぱい。
渦は、強いほど巻く。
巻くほど、締まる。
寧々は黙って見て、言った。
「……わかめ、見よ」
港の直売は、氷と魚の匂いが混ざっている。発泡箱が並んで、ふたの隙間から冷気が漏れていた。足元が濡れて、靴がきゅっと鳴る。
寧々は箱の前でしゃがむ。生わかめは茶色い。濡れて重い。指でつまむと、ふにゃっとしないで戻ってくる。
「これ、いい」
俺は値札を見て、指で数を作る。
その横から、声が落ちた。
「わかめっすか。今日鯛もいいっすよ」
若い漁師が、箱を一つ開けた。中は鯛のアラ。頭と中骨とカマ。氷の上に赤が残ってる。
寧々が顔だけ上げる。
「鯛?」
「今朝のっす。身、締まってるっすよ」
言い切って、手だけで氷をならす。言葉は少ない。手が先に動く。
寧々は短く聞く。
「だし、取れます?」
「めちゃくちゃ出ます。アラで十分っす」
寧々は「うん」だけ言って、会計を済ませた。用途は言わない。俺も聞かない。
袋の底で氷がカラカラ鳴って、海の冷たさがそのまま車まで付いてくる。
台所号に戻る。車内は少しだけ暖かい。
俺は外の作業台を出して、風よけの板を立てる。板が風を受けて、ぐっと押し返してくる。留め具をひとつ増やす。火が落ち着く位置を先に作る。
鍋を置いたところで、俺は聞いた。
「今日、どうする?」
寧々は手を洗いながら、迷いなく言った。
「鯛めしおにぎりと、わかめの潮汁」
手はまだ洗ってるのに、口が先に走り出した。
「鳴門海峡って、潮が速い。」
「だから身が締まる。魚も、わかめも。締まるってことは噛んだときに戻ってくるってこと。歯が当たって、跳ね返る」
寧々は氷袋を軽く揺らして、続ける。
「鳴門鯛って、身がしっかりしてるって言われるのもそれが理由。弾力。コリッて感じ」
「でも今日は切り身じゃなくて汁を主役にする。鯛の匂いって、薄いと物足りんし、濃いと重い。アラのだしは、そのちょうど間が出る。澄んでいるのに一口で鯛って分かる」
俺はまだ何も食べてないのに、喉が一回鳴った。飲み込むのが惜しい感じがして、息でごまかす。
寧々はわかめの袋を指で弾く。中で、濡れたものがずるっと動く。
「で、今日一番の主役はわかめ。鳴門のわかめ、肉厚でコシ強いって言うけど、ほんまにそう。これも潮が速いおかげやね。
薄いやつみたいに、すぐふにゃってならん。歯が当たる」
「今買ってきたの、茎付きの原藻。生で出回るのは収穫の時期だけ。香りが一段濃くて、袋開けた瞬間、海が近い」
寧々はボウルにわかめを落とす。茶色い塊が、ぬらっと光った。
潮の匂いが車内にひろがる。唾が集まる。
「生わかめ、茶色やろ。湯にくぐらせた瞬間に一秒で緑になる。あれ、見たら腹減る」
「でも大事なのは緑にしたあと。煮たらあかん。煮たら柔らかいだけになる。汁物は最後。
入れて、さっとくぐらせる。時間置いたら音が消える」
「音?」
「鳴門のわかめは厚いから、噛んだときにキュッて歯の横で鳴る。葉は香り、茎は歯ごたえ。今日は汁に"音"を入れたいから、茎寄りで入れる。葉は最後にひらっと」
寧々はさらに続ける。
「潮汁は塩で立てる。生姜はちょい。味を変えるんじゃなくて、湯気を抜けやすくする。鼻が開く。飲んだ瞬間に次が欲しくなる」
「おにぎりは軽く。鯛の身は混ぜるけど、重くしない。汁→おにぎり→汁、って口が勝手に回る形にする。おにぎりは"止まらん"ための道やねん」
最後だけ、短く言う。
「わかめは、最後」
「最後が一番、腹減るから」
……よだれを飲み込むのが、もったいない。
「……やる気出る説明、やめろ」
寧々は口の端だけ上げた。
「それが一番の調味料」
「ほら。始めよ」
俺は火をつける前に、もう覚悟してた。今日もこの人の説明に腹を空かされる。
まず、鍋に水。昆布を一枚。
火は弱め。
「煮立てない、な」
俺が言うと、寧々は頷いただけで、アラの袋を開けた。
次に、アラ。
冷たい水でさっと流して、血の赤を薄くする。
「ここ、血と、ぬめり残ると嫌な匂い。」
寧々は短く言って、湯を少し用意する。アラにかける。表面がきゅっと白くなる。
すぐ冷水に落として、指でこする。骨の間をなぞって、引っかかるところだけ落としていく。
鍋のほうは、昆布がゆっくり揺れている。
ふちに泡がぷつぷつ二つ、すぐ消える。
「今」
寧々が言って、昆布を引き上げた。濡れた昆布が一瞬だけ黒く光る。
アラを入れる。ぽちゃん、と低い音。湯は跳ねない。
白い泡が寄ってくる。寧々はおたまで静かにすくう。鍋はかき回さない。泡だけ上から取る。
「煮立てたら、濁る」
「濁ったら?」
「……嫌。濁ると重い」
個人的に、がそのまま顔に出てる。
俺は火を少し弱める。風が当たっても、炎が暴れないくらいまで。湯気は細いまま。
寧々が鍋に顔を寄せて、息をひとつ吸う。
「まだ」
味じゃない。匂いだけ。
炊飯器を開ける。米の湯気がふわっと広がる。車内が一瞬だけ白くなる。
寧々はアラから身を少し拾う。カマのところ。骨を避けて、身だけをちぎる。
生姜を少しだけおろして混ぜる。
塩をちょい。
「軽く、な」
混ぜすぎない。粒がつぶれない程度。
手のひらで丸める。ぎゅっとはしない。形だけ作って、並べる。
鍋に塩をひとつまみ。
寧々はおたまで汁をすくって、小さい紙コップに少しだけ入れた。ふっと息を吹いて、ひと口。
「……もう少し」
少し足して、もう一回。
「これでいく」
俺もコップを受け取って、湯気を吸ってから舌に乗せた。
口が開いた。
「うま—」
寧々が先に言った。
「まだ。わかめ入れてない」
端のボウルに、茶色いわかめが濡れて光ってる。
さっき寧々が言った色のまま、待ってる。
寧々は一度だけ触って、すぐ離す。
「最後」
鍋は静かだ。
静かなまま、次の一秒を待っている。




