第2話③ 山椒唐揚げ ― 湯上がりの褒美
俺は礼を言って、台所号の鍵を指で探した。
表の灯りを背に、教えられた裏手へゆっくり回す。
砂利の駐車場に車体を入れると、石がぱらぱらと跳ねる。
建物の壁に近づくほど、湯の匂いが濃くなる。
表よりも、生の匂いだ。
エンジンを切る。
振動が止まると、耳の奥が少しだけ鳴る。
さっきまで聞いていた"じゅわ"の残響が、まだ身体のどこかに残っている。
「……今日もありがとな」
寧々は頷く。
その頷きだけで、肩が少し軽くなる。
有馬の湯は、町の空気の芯みたいにそこにある。
坂の途中からでも、硫黄の匂いが追いかけてくる。
湯けむりは白く、夜でも消えない。
暖簾をくぐると、足元の石が冷たくて、すぐに湯の熱さを思い出す。
湯に沈む。
身体の輪郭がほどけていくみたいに、力が抜ける。
沈むと、昼の油の匂いが抜けていく。
血が巡って、息が深くなる。
十四年。
山。
枝。
接ぎ木。
湯の中でそんなことを考える自分が、ちょっと可笑しい。
けど、考えてしまう。
待つ時間は、湯の中がいちばん似合う気がした。
湯から上がる。
外気が冷たくて、肌がぴりっとする。
浴衣が吸った湿り気が、妙に気持ちいい。
台所号に戻る。
俺は荷台の端を整えた。
小さなテーブルを出して、紙皿を二枚。
布巾で手を拭くと、粉がまだ指の関節に残っている。
寧々が、昼と同じ一皿を用意する。
三つ。営業と同じ。本番。
量は少ない。
でも、ここに今日が全部入ってる。
寧々は皿を見たまま、言った。
「……先に開けよ」
俺は笑って冷蔵庫を開ける。
銀色の缶を二本。一本は寧々に渡す。
寧々は受け取って、缶の冷たさを確かめるみたいに掌を当てた。
目が、さっきより静かに光ってる。
「乾杯」
俺が言うと、
寧々は小さく頷いて、缶を少しだけ上げる。
「うん」
ぷしゅ。
二つの音が重なる。
かちん。
軽く触れて、ちゃんと鳴る。
俺が一口飲むより先に、寧々が飲んだ。
喉が小さく動く。
「……これ」
たったそれだけで、今夜の目的が全部わかる。
「順番は?」
俺が聞く。
寧々は迷わず言う。
「塩。つぎマヨ。最後みぞれ」
まず、塩。
寧々が実山椒をつまむ。
指が迷わない。
「落とす」
ぽとり。
緑の粒が熱い衣の上で弾ける。
青い香りが、ふっと立つ。
自分の皿に落として、先にひと口。
歯で衣を割ると、薄い衣の向こうから肉の脂がじわっと出る。
塩が舌の先で引き締めて、山椒の香りが鼻の奥へ抜ける。
一拍遅れて、痺れがくる。舌の端。喉の手前。
寧々の口元がほんの少しだけ緩む。
笑うまではいかない。けど、"勝ち"の顔だ。
「立ってる」
小さく言って、俺を見る。
「ほら」
俺も噛む。
衣が割れた瞬間、脂の甘さと山椒の青さが同時に来た。
鼻の奥が熱くなる。
寧々がすぐに缶を持ち上げた。
「……今」
俺が言う前に。
俺も飲む。
冷たいビールが、痺れの残った舌に落ちる。
熱と冷がぶつかって、炭酸が山椒の余韻を押し流す。
口の中がすっと、空になる。
次、マヨ。
寧々がとろりとかける。
白が衣に吸い込まれて艶が出る。
ひと口。
マヨの脂が最初に来て、塩よりひと回り重い。
でも山椒がその重さを後ろから切る。
脂が広がったところへ、青い香りが縦に通る感じ。
今度は眉が少しだけ動く。
「重いけど、切れる」
もう一口。
確認じゃなくて、欲の追加だ。
俺は黙って揚げ物を噛んで、缶を傾ける。
泡が甘い。
最後、みぞれ。
寧々は大根おろしをのせてから、少しだけ山椒を足す。
「温度、落ちた。いける」
ひと口。
冷たい大根おろしが先に当たる。
ポン酢の酸がきゅっと締めて、脂を一回リセットする。
そこへ山椒が遅れてくる。さっきの塩よりずっと長く、舌の奥にとどまる。
寧々は目を閉じる。ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
窓の外で湯けむりが揺れる。
寧々が缶をもう一度持ち上げる。
「……今日、いい」
俺はその言葉が、なぜか嬉しくて、少しだけ胸が熱くなる。
小鉢を寄せる。
指先に残った山椒の匂いを、テーブルの端でそっと払った。
「……次、決まった」
「はや」
「しらす」
「淡路?」
俺が言うと、寧々は頷くだけ。
「……生のやつ。黄身、落とす」
俺は缶を軽く上げた。
寧々も同じ高さまで上げる。
かちん。
今度は、音が前より少しだけ近かった。
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【PHOTO】山椒唐揚げ(三種)
熱いのに、香りだけ先に抜ける。
湯上がりの口が、勝手に進むやつ。
本日、完売。
——次は"海の朝"に寄り道するらしい。
#旅する台所号 #今日の一皿 #湯上がり案件
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