第2話② 山椒唐揚げ ― 三つの出口
最初のお客さんは浴衣姿の男二人だった。頬が赤い。湯の赤だ。
「塩って辛い?」
寧々は小さく首を振る。
「辛くはないですよ。少しだけ痺れます」
揚げたてに塩を"落とす"。ぽとり。
男がひと口。
歯が衣を割った瞬間、湯気がひとすじ出る。
皮の脂が、口の中に広がった——と思ったら、すぐ山椒の青い香りが鼻を抜けた。
「うわ、鼻抜ける」
もう一人が笑う。
「これ、ビールやろ」
俺の喉が鳴る。
まだだ。順番がある。
次はカップル。
女の子がメニュー板を見て言う。
「みぞれって何?」
寧々は器を示す。
「大根おろしです。さっぱりします」
揚げたての上に、みぞれをのせる。
熱い衣がじゅっと一瞬静まる。
冷たい大根おろしの水分が衣に触れて、湯気が白くなって立つ。
女の子がひと口。
衣の熱と、みぞれの冷たさが口の中でぶつかる。
ポン酢の酸が先に来て、脂をきゅっと締める。
そのあと山椒が遅れてくる。細い痺れが、舌の端に残る。
「……優しい」
午後、人が増える。
湯上がりの体温が、坂を上ってくる。
「からい?」
子どもが聞く。
寧々は少しだけしゃがんで目線を合わせた。
「痛くないよ。……しゅわ、ってする感じ」
「しゅわ?」
子どもが笑う。
旅館の作務衣の男が来る。
揚げ物の匂いを吸って、迷わず言う。
「塩で」
寧々が揚げたてを渡す。
男がひと口食べて、目を細める。
「……香り、ちゃんとしてる」
寧々が小さく言う。
「復活の実山椒なんです」
男が頷く。
「山で枝探したやつやろ。時間かかったらしいな」
その言葉が、町の中でちゃんと回ってる感じがした。
お客さんが増えるほど、寧々の手は静かになる。
落とす量が一定で、迷いがない。
塩の小鉢の緑が目に見えて減っていく。
俺は焦って聞く。
「足りる?」
寧々は即答した。
「大丈夫。……ただ、ここから"守る"」
「減らすってこと?」
「減らすんじゃない。外さない」
寧々は揚げたてを指で示す。
「衣が湿ってると、香りが消えやすい。だから——」
寧々は言い切る前に、もう動いている。
揚げ時間を短くする。
二度揚げの間を詰める。
出す直前に仕上げる。
香りのために回転を上げる。
「……すごいな」
俺が言うと、
「匂いは、待ってくれへん」
寧々はそれだけ言った。
夕方。
最後のお客さんが去る。
油の音が、ようやく落ち着く。
ふっと静かになった瞬間、昼間ずっと聞いていた"じゅわ"が、急に遠く感じた。
紙皿の山を片付けていると、昼間の作務衣の男が、もう一度顔を出した。
「もう終わりかい?」
「はい。完売です」
寧々が頭を下げる。
男は空になった小鉢を見て、ふっと笑う。
「匂い、最後まで立ってたな、車で来とるんやろ」
「はい」
「今夜、宿は?」
寧々が先に答える。
「まだです」
男はうなずく。
「裏、空いとる。従業員用のとこやけどな。エンジン切って静かにしとるなら、使い」
一拍おいて、
「湯、入ってき。閉まる前に」
俺は思わず「え」と声を出しかけて、飲み込む。
「いいんですか?」
「ええよ。今日の匂いの礼や」
男はそう言って、暖簾の向こうへ戻っていった。
坂の上に、夜の気配がゆっくり降りてくる。




