第2話① 山椒唐揚げ ― 復活の香り
有馬の坂は、朝でも湯けむりがほどけている。
石畳は湿って、足音が少しだけ丸くなる。硫黄の匂いに混ざって、甘い土産の匂いが流れてくる。
まだ静かなのに、"人が動きはじめる気配"だけがある。
台所号を停めると、寧々は窓を少しだけ開けた。
外の空気を吸うみたいに。
「今日はなににする?」
俺が聞く。
「山椒唐揚げ」
即答。
「確かにビールに合いそう」
「湯上がりにビールと油。油に負けない香り」
…欲望に従順なことで。わかるけど!
そこから先はもう仕入れだ。
棚に並ぶ山椒。粉、佃煮、実の塩漬け。
小さな貼り紙が目に入る。
『有馬山椒 復活栽培』
『湯船谷/稲荷山』
「復活って書いてる」
俺が言うと、寧々は貼り紙を指で軽く叩いた。
「山の木が減って、一回、消えかけた」
「なんで減ったん?」
「山が変わった。開発もあったし、採る人も減った」
寧々は袋を持ち上げる。
「で、山に残ってた木を探した」
「探したって、どうやって」
「山の中歩いて、"それっぽい木"探す。トゲある木。そこから穂木取る」
「穂木?」
「枝の先っちょ。苗にするためのやつ。それを台木に接ぐ。接ぎ木」
店の人が奥から言う。
「最初は山で探すところからやった。二〇〇九年頃や」
写真を見せてくれる。
山の斜面でしゃがんで枝を探す人たち。
「接いで、育てて、畑にして……商品になるまで十四年ぐらいやな」
十四年。
袋の中の粒は軽い。
でも、時間は重い。
「なんでそこまで」
俺が聞く。
寧々は一瞬だけ考える。
「同じ匂い、残したかったんやと思う」
それ以上は言わない。
俺はつい言ってしまう。
「唐揚げに振るだけやったら、悪いな」
寧々は首を振る。
「振らない」
「え?」
「落とす。揚げたてに」
その言い方が妙に真剣で、俺は黙る。
台所号に戻る。
鶏もも肉を開く。
皮の下に、白い脂がある。薄く張りついてる。
塩をひとつまみ、全体に散らす。
にんにくも生姜も出さない。
「匂いの邪魔になる」
塩が肉の表面に馴染むまで、少しだけ置く。
指で触ると、しっとりしてくる。水分が少し出てきた感じ。
片栗粉をバットに広げる。
肉を入れて、軽く押さえる。
持ち上げて、余分をはたく。
パン、パン。
薄く白い粉が舞って、落ちる。
残ったのは、うっすら白い膜だけ。皮の透け感がそのまま見える程度。
「香りの通り道、作る」
実山椒を刻む。
チ、チ、チ。
包丁が当たるたびに、緑の汁が滲む。
匂いが跳ねる。
鼻の奥が熱い。指先がじん、とする。
さっきまで硫黄の匂いだったのに、今は青い香りだけになってる。
「三つ」
実山椒塩。
実山椒マヨ。
みぞれポン酢。
「みぞれ、山椒あとから」
「なんで?」
「冷たいのに混ぜると、香り閉じるときある。今日は立たせたい」
油の温度を確かめる。
菜箸の先を入れると、細かい泡がじわっと上がってくる。
まだ早い。
寧々は待つ。焦らない。
泡が少し大きくなった。
菜箸を離してすぐ泡が消えるくらい。
「今」
肉を油に落とす。
じゅわわ。
一度にではなく、端から泡が広がっていく。
最初は白っぽい泡。それが細かくなって、音が安定してくる。
油の表面が、肉の形のまま騒いでいる。
皮の面が、薄い黄色から少しずつ濃くなっていく。
端からきつね色が滲みはじめる。
一度揚げ。
まだ中は生っぽい。表面だけ固まった状態で引き上げる。
バットに置く。皮がしゅっと縮んで、脂が少し滲み出る。
少しだけ置いて、二度目。
今度は油の音が違う。
さっきより細かく、乾いた音。
皮全体がきつね色に変わる。
端が少しだけ濃い。
菜箸で触れると、かちっと返ってくる。
引き上げる。
衣がまだ鳴いてる。
寧々が塩をつまむ。
「落とす」
ぽとり。
緑の粒が、熱い衣の上で弾けた。
香りが、ぐっと変わった。
坂を歩いていた人が足を止める。
「……なにそれ」




