第1話② すじコン炊き込み ― 米に寄せた日
翌朝。というより、翌朝の"途中"から始まる。
旅の移動は描かないって決めてるし、俺たちの旅はまだ始まったばかりで、描いても面白くない。だから、いきなり——下町の空気。
鉄板の熱と、ソースの焦げと、油の匂い。粉ものの甘さ。歩くだけで腹が鳴る匂いが、いくつも重なってる。
「ここ、好き」
寧々が小さく言った。寝起きが弱いはずなのに、こういう匂いの場所だと目が開いてる。
「人、多いけど」
「営業なら大丈夫」
寧々は、人混みが苦手だ。苦手だけど、仕事ならできる。できるけど、終わったら一気に静かになる。そこも、俺は知ってる。
台所号——「旅する台所号」の横腹を開けると、小さな台所が現れる。寧々の居場所だ。
「今日のやつ、いける?」
俺が聞くと、寧々は短く頷いた。
「……うん。火、もうちょい強めで」
はいはい、と俺はガスのつまみを調整する。こういう言葉が出ると、寧々はもう仕事の顔だ。
今日の一皿は、すじコン炊き込み。
「すじコン」ってのは、牛すじとこんにゃくを甘辛く炊いたやつ。このあたりでは、そう呼ぶ人が多い。店によっては"ぼっかけ"って言うこともあって、ご飯にかけるから「ぼっかけ丼」なんて名前もあるらしい。
「"すじコン"って、だいたいの店、味が違うよね」
「そりゃそうだろ。家ごとに違うやつ」
「……前に作ってたのは、もっと濃かった」
「へぇ」
寧々はそれだけ言って、鍋の蓋を持ち上げた。
湯気がどっと出る。醤油と砂糖が熱で丸くなった匂い。すじ肉の脂がその奥に溶けて、甘辛いのに重くない。
「でも今日は、米に寄せたい」
炊飯器の内釜に米を入れ、そこへすじコンの煮汁をひとすくい。
透明に近い煮汁が、白い米の上でじわっと広がる。米粒の端が、薄い茶色に染まっていく。
混ぜる前から、もう匂いが変わった。米と甘辛が近づいた匂い。焦げてない。丸い。
「色、濃いな」
「香りは甘い。そこが違う」
牛すじを刻む。長く煮込んで、繊維がほどけかけてる。透明に近い色で、箸で触るとくずれそうなのに、芯だけ残ってる。
こんにゃくは小さめに。噛んだときに米と一緒に"コリッ"が来るように。
具を内釜に並べる。寧々の指が迷わない。
炊飯器の蓋を閉める音がして、カウントが始まった。
「……うん、これ」
また短文。味見の合図だ。
「今日、他のも出す?」
俺が聞くと、寧々は首を横に振った。
「今日は、これ一本」
「潔いな」
「初日だし。散らすと、ぼやける」
言葉が料理のことだけになると、寧々は迷わない。
炊飯器から細い湯気が漏れはじめた頃、寧々は蓋の隙間に鼻を近づけた。
一秒だけ、息を止める。
「……いける」
それだけ言って、蓋を開けた。
湯気が、ぶわっと上がった。
甘辛の匂いが熱ごと飛んでくる。醤油の香ばしさが先に来て、脂の甘さがあとから重なる。
米は一粒ずつ立っていて、すじ肉の色が薄く移っている。ところどころ、茶色がかった粒。
俺の喉が、勝手に鳴った。
俺はのぼりを立て、メニュー板を出し、SNS用の写真を一枚撮る。中心は湯気。文字は最小。
——旅する台所号、本日開店。
そう投稿して、顔を上げた瞬間だった。
「……あ」
風が来た。
のぼりが、ぺしゃっと倒れた。支柱が地面に当たって変な音を立てる。初日から縁起でもない。
俺が慌てて駆け寄ろうとしたら、寧々が先に動いた。早い。寝起きが弱い人とは思えない。
「大丈夫。折れてない」
寧々は淡々と支柱を拾い上げ、留め具を直した。手が慣れている。
「……前も倒れたことある?」
「ある。風は、いつでも来る」
そう言って、寧々はのぼりを立て直した。俺は苦笑いして、火加減を確認する。
——この人、静かだけど強い。
営業が始まる。
最初に来たのは、近所の年配の女性だった。湯気を覗き込んで、眉を上げる。
「それ、すじコン?」
「はい。炊き込みにしました」
「ええな。じゃあ、それ」
寧々は一言も多く言わない。容器に米をよそい、具を乗せ、最後に煮汁をほんの少し垂らす。
煮汁が熱い米に落ちた瞬間、湯気がもう一段階増えた。甘辛の匂いが、ふっと立つ。
「熱いから、気をつけて」
それだけ言って渡す。
女性は一口食べて、何も言わずに頷いた。表情だけで十分だった。
次に来たのは作業着の男性。メニュー板を見て、笑う。
「すじコンを炊き込みにしたの? それは合うな」
「米、合います」
寧々がそれだけ言うと、男性は「そうだろうな」と笑って買った。食べながら、「あ、これ、ええわぁ」と小さく言った。聞こえたか聞こえないかの声。
俺はその瞬間に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
行列はできない。派手な盛り上がりもない。でも、途切れずに人が来て、買って、頷いて帰っていく。その繰り返し。
寧々が、たまに短く言う。
「火、もうちょい」
「汁、足して」
「……うん、これ」
それだけで台所号は回る。俺は声を張って呼び込みはしない。寧々が人混みを苦手なのを知ってるから。必要以上に人を呼ばない。そういう"ちょうどよさ"を作るのが、俺の仕事だ。
夕方前、最後の釜が空になった。
「……終わり」
寧々が言う。顔色は変わらない。でも、肩の力が抜けたのが分かる。
「初日で売り切れ、すごいな」
「すごくない。量がちょうど良かっただけ」
「それでも、すごい」
俺が言うと、寧々は返事をしない代わりに、ほんの少しだけ目を伏せた。照れたのかもしれない。
片付けをして、台所号の中に二人だけになる。外の音が遠くなると、寧々は一気に静かになる。さっきまでの仕事の顔が、ほどけていく。




