第1話① すじコン炊き込み ― はじまりの湯気
神戸牛は、静かに甘い。
箸で持ち上げた瞬間、脂が光った。
白じゃない。黄みがかった、やわらかい白。
それが皿の上でわずかに揺れて、口に入れた瞬間——熱さより先に、甘さが来た。
噛む前から溶けはじめる。
舌の上で脂の輪郭がほどけて、次の瞬間には消える。
残るのは、肉の匂いじゃなくて「余韻」みたいなやつだ。
値段の話をするのは野暮だって、こういうときだけは思う。
店の照明は、やさしくて、少しだけ背筋が伸びる明るさだった。俺がこんな店を選ぶのは、たぶん一年に一回あるかないか。今日は「はじめる前のご褒美」ってことで、寧々が珍しく首を縦に振った。
向かいの寧々は、箸を置くのが早い。味わってないわけじゃない。むしろ逆だ。目を伏せて、何かを確認するみたいに一口ずつ噛む。
「……うん、これ」
それだけ言って、また黙る。普段の寧々はこうだ。穏やかで淡々としてて、余計なことを言わない。
でも、料理の話になった瞬間だけ——別人になる。
「佑」
急に呼ばれて、俺は思わず背筋を正した。店員さんが水を置いた、そのタイミング。なんで今なんだ。
「神戸牛って、全部が"神戸牛"じゃないからね」
「……はい?」
「神戸牛はね、"但馬牛"の中でも、さらに名乗れる条件が決まってる。神戸で食べた牛、ってだけじゃないの。育った場所も、処理の場所も、格付けも。色々。ほんとに、いろいろ」
寧々は笑わない。箸先で肉を少しだけ寄せて、さらっと言う。こっちは思わず、口の中の肉を飲み込むタイミングを失う。
「条件って、そんなに厳しいの?」
「厳しい。だって、"神戸"って名前、勝手に使われたら困るでしょ」
寧々は、そこで一回だけ息を置く。
「……で、面白い逸話があるんだけど」
出た。寧々の"やけど"。これが出ると、講義が始まる。
「但馬牛って、ブランド牛の源流って言われたりするんだよ。で、その中でも昔から有名な種雄牛がいて——『田尻号』っていうオス牛」
「……田尻号?」
「うん。昭和のはじめのほうに生まれたって聞いた」
寧々は、牛の一切れを眺めるみたいに言葉を選びながら続ける。
「むかしね、外国の牛みたいに体格のいいものに改良しようって、外国種を入れた時期があったらしい。でも、肉質が思ったより良くなかったり、病気に弱かったりで、うまくいかなかったって」
「へぇ……」
「で、"純国産の良さ"が見直される中で、田尻号が評価された。子どもをいっぱい残してね。千頭以上って聞いたこともある。そこから血筋が全国に広がって、結果的に"国産牛の土台"を支えた——って」
言い切る直前で、寧々はいつもの癖で少しだけ語尾を落とした。
「……って、言われてる。だからね、ブランド牛の源流は但馬牛にある、って話も、まあ分からなくもない」
最後だけ曖昧にする。断定しない。押しつけない。そこが寧々らしい。料理の話になると饒舌になるのに、言葉の強さはきっちり抑える。
「……急に歴史の授業だな」
「先生じゃない。職業病」
「それ今言う?」
「今が一番うまいから、今言う」
俺は笑いそうになって、慌てて水を飲んだ。寧々は平然としている。こういうところ、ずるい。
寧々は、肉を一切れだけ残していた皿に目を落とし、ふっと息を吐いた。
「いつか究極の贅沢に、神戸牛で炊き込みご飯したい」
夢、というより計画の言い方だった。
「……炊き込み?」
「炊き込み。牛の脂と、米の甘さ、合うと思う」
寧々は淡々と言って、そこで一拍だけ置いた。
その"間"が、妙に艶っぽい。
「それに……昔ね。"米が貴重だった時代"って言われる頃って、かさましするために色んな具を混ぜて炊いてた、って話があるんだよ」
「かさまし……」
「うん。米を増やすんじゃなくて、"米を増やした気になれる"ようにする。具の香りとか、脂とか、出汁とかで。——それが炊き込みご飯の最初や、って言われたりする」
寧々は、自分の言葉に酔うみたいにはしない。
でも、料理の話のときだけ、声がほんの少し柔らかくなる。
「それをさ……最高級の牛肉でやるって、どう思う?」
俺が何も言う前に、寧々は続けた。
「足りないから混ぜてたご飯を、足りすぎるもので炊くの。ね、贅沢すぎない?」
口元だけが、わずかに笑っている。
目は笑ってない。そこが、妙に妖しい。
「……悪い顔してる」
「悪くない。美味しい顔」
寧々は最後の一切れを口に運んで、小さく息を吐いた。
「いつか。本当に、やりたい」
俺はその横顔を見て、思った。
——この人、本当は、料理の場所以外ではしゃべらないだけで。料理があるところだけ、生きてるみたいになる。
そういうのを、俺は嫌いになれない。




