第5話① 鰆の幽庵焼き ― 出会いのうどん
──香川県。
橋を降りると、風が少し乾く。
潮の匂いはあるのに、先に来るのは出汁の匂いや。
白い暖簾が、朝の光で透けている。
「何からいく?」
俺が聞く。
寧々は店の中を一巡する。
丼の重ね方、客の食べ終わる速さ、麺の持ち上がり。
「生醤油にしよ」
「……き、じょうゆ?」
読めるふりをして、失敗した。
寧々が小さく笑う。
「きじょうゆ。麺に出汁かけへんで、醤油だけかけるやつ。
最初にそれ食べたら、麺のコシとか甘さが分かる」
「いきなり通なやつ来たな」
「大丈夫。名前ほど難しくない」
一軒目、生醤油。
丼に、湯切りした麺だけ。
白くて、つやが強い。太い。
冷たさが指に残る。
「ほんまに麺だけや……」
「まず、そのまま一本」
一本、ずる。
噛む。
……跳ね返る。
「うわ」
思わず声が出る。
噛むほど甘い。
粉の匂いじゃなく、小麦の芯。
寧々が小皿の醤油を、ほんのひと回し落とす。
「これくらい。かけすぎると麺が醤油になる」
「麺が醤油になるって何」
「味が全部そっち行く。今日は麺のほう見たい」
俺も少し垂らす。
ずる。
醤油は輪郭だけ。
甘さが、前に出る。
「これ、うまいな。出汁ないのに満足ある」
「足踏みで生地作ってる店やと思う。
寝かせて、踏んで、また寝かせる。だから戻りが強い」
「踏むって、ほんまに踏むの?」
「ほんまに踏む。うどんは足で強くなる」
丼が空になる。
腹はまだ軽い。
むしろ、目が覚めている。
店を出る。
「次?」
「次」
「もう行くん?」
「今ので麺の基準できた。次は汁」
「基準増やすな」
「増えたほうが楽しい」
二軒目の前で、札を見て止まる。
「ぶっかけ……?」
寧々が言う。
「出汁を上からかけるやつ。
冷たい麺に濃いめの汁。麺に絡んで味が変わる」
「名前そのままやな」
「そういうの多い」
二軒目、ぶっかけ。
氷水で締めた麺。
濃い出汁。
大根おろしとねぎ。
ずる。
冷たい。
歯に当たる感触が強い。
「締まってる」
「冷たいほど締まる。だからコシが立つ」
出汁をすする。
甘い。
醤油があとから来る。
三口目。
腹が、じわっと重くなる。
「うまい…けど腹がふくらんできた」
寧々は俺の丼を見る。
「まだ残ってる。ここからや」
「見えてる。見えてるから言ってる」
「ぶっかけは冷たいし汁が濃い。喉が先に進む。
でも胃は、あとから追いつく」
四口目。
確かに、重い。
「三軒目は厳しいかも」
「ほんま?」
「ほんま」
寧々は俺の箸の動きを見る。
「でも止まってない」
「止まらんのは、うまいからや」
「なら、あと一軒」
「理屈おかしい」
寧々は笑う。
「最後に温かい汁いったら、口変わる。
湯気は、それだけで別腹」
ぶっかけを飲み干す頃、
腹ははっきり重い。
歩くと、内側で麺が揺れる。
「……もうだいぶ来てる」
「うん。来てる。でも嫌な顔してない」
「顔で分かるんか」
「分かる」
通りの奥に、もう一枚暖簾が揺れている。
小さい店。
入口が低い。
「まだ行くん?」
「行く。最後にあったかい汁のやつ。出汁見たい」
店の前で、足が止まる。
「これでほんまに最後やからな」
「今日のうどんは最後」
言い直す。
「……うどん'は'…?」
寧々は鼻で息を吸う。
「干した魚の匂いがする」
俺も吸う。
さっきの甘い出汁の匂いじゃない。
乾いた匂い。
鼻の奥に干物の粉っぽさが残る匂い。
「うどん屋やろ、ここ」
「うどん屋やから行く」
暖簾の下から、湯気が低く漏れる。
腹は満ちている。
でも体が、その湯気を追いかけている。
寧々が暖簾を持ち上げる。
「入るで」
俺も続く。




