第5話② 鰆の幽庵焼き ― いりこの湯気
暖簾の内側は、外より少しだけ暗い。
湯気が、低い。
天井じゃなく、目の高さに溜まっている。
「いらっしゃい」
店の人の声は短い。
俺は腹を押さえたまま、席に座る。
「……ほんまに最後やからな」
「うん」
寧々は迷わない。
「かけ、二つ」
俺は横を見る。
「かけって、さっき言ってた"汁のやつ"?」
「そう。温かい出汁を麺にかけるだけ。具はほぼ無し。
出汁がどんな味してるか、いちばん分かる」
どんな顔やねん。
丼が置かれる。
澄んだ出汁。
表面に細い湯気が揺れている。
まず、出汁を一口。
舌の奥が、先に熱くなる。
それから、鼻の奥がつん、とする。
「……魚や」
思わず言う。
寧々がすぐに反応する。
「いりこやね。干した小魚の匂い。鼻に先に来るやつ」
もう一口。
塩より先に、匂いが来る。
喉に落ちたあとも、上あごの奥に乾いた感じが残る。
「これ、さっきの店と全然ちゃう」
「うん。甘さより魚を前に出してる。
香川の出汁って基本いりこやけど、ここは隠してない」
「いりこって、煮干し?」
「ほぼ同じ。カタクチイワシ干したやつ。
でも店によって扱いが全然ちゃう」
寧々の声が、少し速くなる。
「頭取るか、腹取るかで苦み変わる。
焙ると香りが上がるし、そのまま煮たら青さ残る。
濁らせる店もあるけど、ここは澄ませてる。湯気が軽い」
俺は麺を持ち上げる。
細くはない。
でも重くない。
ずる。
出汁が絡む。
腹は重いのに、口が止まらない。
「なんでやろ。もう入らん思ってたのに」
「湯気やと思う。温かい汁の湯気って、口を先に開けるから」
「湯気で腹が開くって、ほんまに?」
「ほんま。鼻が開いたら喉も動く。そしたら一口目が入る。
今みたいに、舌の奥から熱くなる出汁は特に」
確かに、そこが先に来た。
「……言われたら、たしかに奥が先に熱いわ」
「そこにいりこが乗ってくる。
甘いだけの出汁と違って、最後に口の奥に一回残るやろ?」
俺は黙って、もう一口すすった。
店の人が鍋をかき混ぜる。
静かな音。
寧々が出汁をすくって飲む。
「これ、軽く焙ってるかも」
店の人が、ちらっとこっちを見る。
俺が聞く。
「分かるもんなん?」
「生の干物やと、もっと青い匂いする。
これは少し香ばしい。鼻の奥が"つん"で終わらんで、上に抜ける」
店の人が、短く言う。
「今朝のやつや。火、入れてから落としてる」
それだけ。
寧々は大げさに礼を言わない。
小さくうなずく。
「ええ匂いしてる」
店の人は続けない。
ただ、鍋に戻る。
少し間があって、ぽつりと置く。
「魚も今ええで」
俺は麺をすすりながら聞く。
「魚?」
「鰆が出とる」
寧々の箸が止まる。
「鰆……」
寧々の目が少し細くなる。
「瀬戸内やろ?」
店の人は頷くだけやったが、思い出したみたいに続けた。
「朝、港に行ったらええ。並べる前が一番見れる」
「ただ、忙しい時間や。邪魔はしたらあかんで」
それだけ言って、店の人は鍋に戻った。
寧々は丼を見て、出汁をもう一口すすった。
鼻から息を抜いて、俺のほうを見る。
「見たい。今の匂いのまま魚見たら、絶対いい」
俺は顔を上げる。
「今から?」
「朝のほうがええ言うてる」
腹は、完全に重い。
でも出汁の匂いは、軽い。
鼻の奥に残って、消えない。
俺は丼を置く。
「見るだけやで」
「うん。邪魔せん」
寧々は即答する。
店を出る。
外の風が、さっきより冷たい。
腹は満ちている。
でも鼻の奥に、いりこが残っている。
寧々が歩き出す。
「港、あっち」
俺はついていく。
朝の道が、少し静かになる。




