第4話③ 鳴門わかめの潮汁と鯛めしおにぎり——静かなあと
黒板を裏返す。
——営業終了。
留め具を外す。
風よけの板が、ふっと軽くなる。
海の音が、その隙間に入ってくる。
寧々は鍋の前で、ふたの金具に指をかける。
かち、と鳴る。
「終わったな」
「うん」
「さっきまで、ずっと音の中におった気する」
「わかる」
「喉、渇いた」
「私も」
寧々はおたまを持ったまま、ぽつりと言う。
「……営業用の声、疲れる」
「今日は説明、多かったしな」
「口、ずっと動いてた」
「でも助かった。腹減る顔、増えてた」
寧々は一瞬だけ目を上げる。
「……たまには、頑張る」
鍋のふたを開ける。
細い湯気が立つ。匂いが落ちる。
「残り、どれくらい?」
「二杯分。米は四つ」
「ちょうどええ」
「焦らんでいい」
寧々はおにぎりをよそう。
営業中と同じ手つき。
強く握らない。
「それ、ちょっと大きない?」
「同じ」
「今、盛ったやろ」
「気のせい」
目を合わせない。
椀が並ぶ。
「先、米」
「はい」
おにぎりを持つ。
まだあたたかい。
指の腹に、じんわり残る。
ひと口。
ほろ。
米がほどける。
鯛の脂が、あとからじわっと追いかけてくる。
軽いのに、甘い。
噛むたびに、脂が米の間から滲み出てくる。
生姜が、鼻の奥を抜ける。
喉が鳴る。
「……これ、危ない」
「何が」
寧々はまだ噛んでいる。
「飲み込むのが惜しい」
そう言いながら、結局飲み込む。
寧々もひと口。
ゆっくり噛む。
米がほどけて、鯛の甘みが遅れてくる。
飲み込む前に、もう一度噛む。
喉が静かに動く。
「……うん」
小さく息を吐いて、潮汁を一口。
透明が舌に広がり、だしが奥へ落ちる。
寧々はわかめをつかむ。
湯へ。
くぐらせる。
一秒。
茶色の端から緑が滲んで、葉全体に広がる。
青い香りが立つ。
自分の椀へ。
口へ。
キュッ。
歯の横で鳴る。
もう一回。
キュッ。
中から潮が出る。
だしと混ざって、口の奥が濃くなる。
ほんの少し、目が細くなる。
「これ、いい」
短い。
迷いがない。
俺はその声で分かる。
——今日の味は、これでいく。
「自分で作って、自分で納得してるやん」
寧々は口角だけ上げる。
「納得せんと出さん」
俺もわかめを口へ。
キュッ。
中から潮が出る。
だしと混ざる。
すぐ、おにぎり。
ほろ。
すぐ、汁。
すすっ。
キュッ。
回る。
止まらない。
腹が熱い。
喉が、次を欲しがる。
「営業中より、うまい」
俺が言う。
寧々は椀を持ったまま、少し考える。
「自分の分やから」
「ああ」
急がなくていい。
渡さなくていい。
寧々が潮汁を飲む。
一瞬だけ目が細くなる。
「……鳴る」
その声は、やわらかい。
俺は最後の汁を傾ける。
透明が喉を滑る。
鯛のだしが、ゆっくり落ちていく。
わかめの歯ごたえが、まだ奥で鳴っている。
腹は満ちているのに、
口はまだ動きたがっている。
「もう一杯いけそうやな」
「ない」
即答。
「冷たいな」
「ここで止めるのが一番うまい」
小さく笑う。
静かな車内で、噛む音だけが残る。
キュッ。
すすっ。
ほろ。
外で渦は見えない。
でも。
歯の横と、腹の奥で、まだ鳴っている。
鳴門は、鳴る。
静かなまま。
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「……香川、近いよな」
「近い」
短い返事。
「橋、渡ったらすぐや」
「うん」
少しだけ沈黙。
腹が、鳴る。
今度は、素直な音。
俺は笑って言う。
「うどん、どう?」
寧々が横目でこっちを見る。
「食べたい?」
「食べたい」
迷いなし。
「さっきまでキュッやったやろ。今度は、ずるっといきたい」
寧々が、ふっと笑う。
「単純」
「腹やからな」
寧々は少し考える。
「うどんは、食べる」
「作らんの?」
「作らん」
言い切る。
そして、静かに足す。
「……でも、魚は見る」
「魚?」
「瀬戸内やから」
声の温度が、少しだけ上がる。
「鰆、出てるはず」
俺は笑う。
「結局、作る気やん」
寧々は否定しない。
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【PHOTO】鳴門わかめの潮汁と鯛めしおにぎり
透明な潮汁の湯気に、緑が一秒で立つ。
鯛だしに生姜、鳴門わかめがキュッと鳴る。
本日、完売。
——次は香川。うどん食べて、瀬戸内の鰆。
#旅する台所号 #今日の一皿 #鳴門
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