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ビッチに学ぶ美人論

ぶちい、といやな音がした。


すこし傷んだ長い茶髪が指の間からこぼれているのを、うららちゃんが呆然と見つめている。

彼女に相対し、髪の毛を掴んで力任せに引き抜いたその女の子、名前を岡崎百合子という。岡崎さんは怒りのせいか、緊張のせいか、ぶるぶると背中を震わせていた。私の位置からは、岡崎さんの表情はわからない。その肩越しに、うららちゃんの青い顔がうかがえるのみである。


「ふざけんじゃねえ」


百合子ちゃんは絞り出すような声を出した。喉の奥から血が出そうな発声の仕方。音楽の宮野先生が嫌いそうな声の出しかただ。


「い、いたい! なに!? なんなの!」


ワンテンポ遅れてうららちゃんが騒ぎ出し、彼女のとりまきたちが思い出したように一斉に金切り声をあげる。うららちゃんがかわいそう! いたそう、大丈夫? 岡崎謝れよ。信じられない。サイテー。死ね。先生に言うから!


「あれを思い出さない? 芥川の、羅生門。死体になった主人の女から髪を抜いて、売ろうとする老婆」


「あのシーンはこわいよねえ。死んだら人間もモノになるんだなと思って」


「心臓が止まったらその瞬間モノになるのかな?」


私と須賀君は芥川龍之介の、教科書に採用されているがゆえにたぶん日本で一番有名であろう作品について、熱い議論を交わしていた。


「そりゃあそうだよ。死んだら即腐るんだから。あっけないよねえ」


「あんたたち、何話してんのよ!」


私たちは存外に大きな声で喋っていたらしく、うららちゃんが私たちを咎めた。


「私たちを怒鳴るのは筋違いというものよ」


「そうだよ。僕らは死体について話してただけだし」


「死体?」


突然口を出したのは、今まで黙っていた岡崎さんだった。私は同じクラスの彼女のことをよく知らない。勉強はあまりできないようで、授業中などに発言はしない。運動はそこそこできるようだが、すこし太り気味である。寸胴でかたそうな身体に、ぶすっとした表情はブルドッグを思わせる。それでも、もう少々愛想良く笑えば可愛いのではないか、と感じる。


「そうよ。死んだら魂はどこに行くのかしら、って話してたの」


そうだったっけ、と私の彼氏は首を傾げる。


「そんなの決まってる」


岡崎さんはどこかヒステリックな調子で言う。


「未練がある魂はね、その場にふわふわ漂ってるの。あたしは死んだら祟ってやるわ」


「くだらない」


いいかげん、私はうんざりしていた。魂が何処に行くのか? 遠い遠い昔から私たちなんかより余程頭のいい学者たちがずっと考えてきた問題だ。しかし結局そんなものに答えは出ていない。

それでいいのだ。そういう問題は考えるプロセス自体が楽しいから考えているのであって、答えを求めているわけではない。


「うららちゃんは確かにデリカシーのない子だけれど、あなたの言動も目に余るわ。だいたい、そんなことして何になるのよ。いやなやつに正面から向かうなんて愚の骨頂だわ」


「じゃあ、あんたならどうするの」


「私? 私なら、そいつの一番大切なひとを奪うかな。そうね、うららちゃんの場合はモデル仲間で今中学生二年生の彼氏じゃない?」


「なんでそれを知ってるのよ」


「実名でツイッターはやるものじゃないわ」


私はクラスメイトのネット上のつぶやきにはあまり興味がないので直接見てはいないけれど、今はちょうどお花を摘みに行っている親友経由で知ったのである。私のたったひとりの親友はネット中毒なのだ。


「べつに隠してないけどさ。あんたたちバカップルのおかげでなんだか気が抜けちゃった」


うららちゃんがふう、と息を吐いた。そして岡崎さんに向き直る。


「岡崎、なんでいきなり髪つかんだりしたの? あたしがなにか、悪いことした? そんな覚えはないけど」


まるで女王様のように堂々と、しかし可愛さの演出は忘れずに、小首を傾げて問う。大した度胸だ。


「答えたく、ない」


岡崎さんはうららちゃんを睨みつけ、憎々しげに呪詛の言葉を吐く。


「ほんとにむかつく。何も知らないはずない。あんたなんかめちゃくちゃにしてやる」


「無理よ」


私は再び口を挟んだ。


「うららちゃんの彼氏はうららちゃんに首ったけだもの。相当な面食いのようだし、岡崎さんに彼は奪えないわ」


「どういう意味? あたしがブスだっていいたいの!?」


やっぱり李菜のようにうまく話せないな、と内心歯噛みしながら私はポーカーフェイスを崩さないよう言葉を選ぶ。ここまで来たら乗りかかった船だ。うららちゃんのことは個人的に気に入っているし、助けてあげるのもやぶさかではない。


「……容姿がある程度モノをいうのは当たり前だわ。ひとは、きれいなものに惹かれるの。美しいというのは、遺伝子にとっていいことなの。できるだけいい子孫を残すよう、私たちの遺伝子はプログラミングされているの」


「君もなかなか残酷だねえ」


そう言いながら、黙って話をきいていた須賀君はかばんの中から本を取り出した。どうやらもうこのやりとりに興味を失ったらしい。


「男性はとくに、容姿に惹かれるらしいわよ」


「ブサイクは人生諦めろってこと?」


「そんなことは言ってない。あのね、あなたと、あなたの容姿を関連づけているのはあなたよ」


これは李菜の受け売りだ。



もっときれいに、もっとかわいく生まれたかった。

そのとき私は鏡を見ながら、なんとなくつぶやいてしまったのだ。私は李菜に似ていない。李菜みたいになりたい。


「物事はすべてニュートラル、中立なのよ」


李菜は突然話し出した。私の顔をまっすぐ見つめて。


「どういうこと?」


「たとえばあんたが事故に遭ったとするわね?それで怪我をした。あんたはどう思う?」


「怪我の度合いによるけど、少なくともハッピーって感じではないかな。悪いことが起こっちゃった、どうしよう、と思うわ」


「あのね、事故は事故であって、その出来事に善も悪もないの。あとから出来事を悪いことだと決めつけているのは、いつだって人間なの」


「難しいわ」


「物事はすべての感情から独立しているわ。それだけは覚えておきなさいな」


(私は李菜に似ていない。とびきりの美少女ではない。その事実と、私のこの感情には何も関係がない。関連づけているのは私。)


すこしだけ気分が晴れて、私は鏡の中の自分に微笑んだ。


李菜は気休めを言わない。彼女の言うことが正しいかどうかはわからない。けれど彼女は丁寧で真摯な言葉をくれる。誤魔化さずに、私を子供扱いせずに。だから私も李菜を母だとは思わないのだ。



「美人が子孫を残しやすいのは事実だけど、そのこと自体と岡崎さんが自分の容姿について卑下することは、なんの関係もないのよ」


だから。私は覚悟を決めた。そろそろ休み時間も終わる。クラスメイトは固唾を飲んでこちらをうかがっている。問題をひとまず収束させよう。そう思い私は席を立つ。


「だから岡崎さんのお父さんがうららちゃんの綺麗なお母さんとダブル不倫しているのも仕方ないことだわ」


声をひそめて岡崎さんとうららちゃんにだけ聞こえるように言った。


「なんでそれを!」


「なあに、それ!」


岡崎さんが目を剥き、うららちゃんが叫ぶ。


「静かにして。噂になったらどうするの。というか、保護者のあいだにはもう広まってるわ。岡崎さんもだれかから聞いたんでしょう」


「そうだけど、なんであんたが知ってるのよ!」


「大丈夫、だれにも言わないわ。情報のルートは明かせないけど、ここまで知ってしまったからには関与は免れないわね。仕方ないからなんとかする」


「なんとかって……子どものあんたに何ができるのよ……」


岡崎さんは絶句した。うららちゃんはまだ放心している。


「ごめんね、うららちゃんに内緒にできなかった。いずれ露見するもの」


「不倫て、ほんとうなの……」


「残念ながらね。怒らないところを見ると、思い当たるふしがあるのかしら」


うららちゃんは力なく頷く。


「岡崎さん、うららちゃんは何も知らなかったの。だから彼女を責めたって仕方ない。あなたと同じ立場なんだから。本当はわかっていたんでしょう?」


岡崎さんは、うん、ごめんなさい、と小さな声で謝った。


そのとき、絶妙なタイミングでチャイムが鳴る。私はふたりに席に着くよう促した。唇に指をとんとんと当てながら頭のなかを整理しつつ、私も椅子を引く。


「お疲れ様」


「まだ解決にはほど遠いわ。須賀君も手伝ってね」


「李菜さんに相談すれば一発じゃないの」


「それは最終手段」


私は声に力をこめた。


「ビッチの娘として、華麗にクラスの秩序を保ってみせるから」


「それだけ聞くと君が秩序を乱してそうだけどね……」



おわり。

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