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緑の扉 <ダーク七都Ⅰ>  作者: 絵理依
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第7章 こちら側への帰還 2

 目が覚めたとき、見慣れた天井が見えた。自分の部屋の天井だった。

 そして、自分のベッドに自分のパジャマを着て、いつものように寝ている自分がいた。

 ベッドのヘッドボードも間違いなく頭上にあるし、猫柄のパジャマの袖も、鮮やかすぎるくらいに目に飛び込んでくる。頭の下には、ラベンダーが入った、いい匂いのする枕。

 マンガの主人公のポスター、チェストの上のクマのぬいぐるみ、青い水玉のカーテン……。

 普段と同じだ。何一つ変わっていない。

 よかった……。

 ずっとずっと恋焦がれていたようにさえ思える、この部屋。

 私は、ここに戻ってきたかったんだ。

 でも、あれは夢?


 窓から入ってくる夏の太陽の光で、部屋全体が明るかった。

 異世界の太陽ではなく、七都の世界の見慣れた太陽――。溶ける心配など微塵もない。七都を含めた、生きとし生けるものをあまねく照らす、すべての生命の源たる輝き――。

 七都は、壁にぼんやりと視線を這わせる。

 制服がハンガーにかけられていた。その横に、エンジ色のフード付きマントも、並べて掛けられている。

 七都は、飛び起きた。


<ここでのことは、夢じゃないからね>


 ナイジェルの声が、頭の中で響いたような気がした。


 枕元のサイドテーブルの上には、ガラスコップが置かれてあった。窓から注がれる光で、きらきら輝いている。

 七都は、それをつかんでみた。

 中はからっぽだ。蓋もなくなっている。

 あの透明な石は、ここに帰って来たのと同時に涙に戻り、蒸発して消えてしまったのだろう。

 七都は、コップをかざした。向こうでは気が付かなかったが、表面に蝶の模様が彫られている。


「セレウス……」


 七都は床に立って、マントを見上げた。

 メーベルルのマント――。太陽をさえぎる繊維で出来た、魔神族のマントだ。

 七都は、マントをつかむ。ふわりとした軽い感触が手を包んだ。


「夢じゃない。そう。夢じゃなかった。ドアの向こうの世界は、存在するんだ」


 七都はハンガーからマントをはずして、抱きしめた。

 ナイジェルも、セレウスも、ゼフィーアも、セージも、ティエラも、そしてユードも実在する。

 メーベルルは死んでしまったけれど、彼女も確かに存在したのだ。

 七都は、彼らの存在を確認できるのが嬉しかった。

 ここに何も持って帰ってなかったら、信じていないかもしれない。マントもコップも残っていた。ちゃんと。

 もしかしたらこういうものって、この世界に戻ってきた途端、消えてしまうのかと思っていた。

 それにしても、なんてたくさんの人に出会ったのだろう。いっぱい話をしたのだろう。

 普段の高校生活では、クラスメート、それも決まった友人としか話さない。

 男子とだって、あまり話したりなんかしない。大人と話すことがあるといえば、先生くらいだ。それも、打ち解けた会話なんか、決してしない。

 けれども、向こうでは、たくさんの不思議な人たちと出会った。奇妙な出来事も、たくさん。

 こわかったけど、悲しかったけど。スリリングで、摩訶不思議で……やっぱり結局、楽しかったかもしれない。


 階下から、おいしそうな匂いがする。果林さんが作る料理の匂いだ。

 七都は、自分がかなり空腹であることに気づいた。匂いに反応するように、お腹が鳴っている。

 そうだ。向こうでは、コーヒーと花しか口にしてないもの。ご飯を食べなくちゃ。

 七都は、果林さんが枕元に用意してくれていた、いつもの普段着に着替える。

 だけど……。

 わたしをパジャマに着替えさせてくれたのは果林さんで……。

 ポケットからコップを出しておいてくれたのも果林さん……。

 マントを着た七都が床に寝ているのを発見して、果林さんは、どう思ったのだろう。

 そして、あの招き猫――。

 付箋を頭に貼って、傷だらけになった招き猫を見て、何と思っただろう。当然、付箋に書いてある文章も読んだに違いないのだ。

 どうしよう、言い訳。

 やっぱり、記憶喪失でごまかす……かなあ。

 時計は、午後二時過ぎを刻んでいる。

 七都が、リビングのドアを開けて向こうの世界に行ってから、まる一日以上。いったいどれくらい眠ったのだろう。

 向こうの世界では、日の出前から日の入りぐらいまで。一日の半分くらいは向こうにいたのかもしれない。

 だとすると、やはり戻ってきてから、十三時間以上は眠っていたことになる。


 七都は、廊下に出た。

 洗面台の鏡を覗くと、いつもの七都が映る。

 向こうの私ほどきれいじゃないけど。

 緑色の髪でもないし、ワインレッドの目でもないし、魔力も使えないけど。

 でも、ここでの私も悪くはないよ、きっと。

 体が温かいし、なんかちゃんと生きてるって感じがするもの。

 七都は、自分に微笑んだ。


 ダイニングのテーブルには、たくさんの料理が並んでいた。

 ピザにパスタ、ミートパイ、キッシュ、鶏のからあげ、お刺身、巻き寿司、鰹のたたき、オムライス、コーンスープ、皿うどん、マカロニグラタン、お好み焼き、杏仁豆腐、果物のサラダ。

 カレーが入った鍋が火にかかっているし、ドーナツの箱があるのも見える。見事に、七都の好きなものばかりだ。


「あら、ナナちゃん」


 キッチンにいた果林さんが振り返る。

 いつもの果林さん。いつもと何も変わってはいない。表面的には。


「すごいご馳走だね」


 七都は、呟いた。


「だってナナちゃん、うわ言のように、何か食べたい、食べたいって言うんだもの。お料理を作り始めたら、央人さんがそれだけじゃ足りないって文句言うし。だから、珍しくデリバリーも利用したわ」


 果林さんが言った。

 ソファーには、父の央人が座っている。その横には、猫に戻ったナチグロ=ロビンが、丸くなっていた。


「やあ。よく眠ったね」


 央人が手を上げた。

 どことなく、わざとらしくぎこちない上げ方だった。


「お父さん、出張は?」

「日帰りで切り上げた。あとは部下に任せてね。優秀な部下を持つと、行動範囲も広がる」


 央人が答える。


「捜索願は出さなかったの?」


 七都は、思いきって言ってみた。

 いつまでも、やんわりと雑談で済ますわけにはいかない。

 

「私が止めた。その必要はないと判断したんだ。出しても無駄だろうしね」

「扉の向こうの世界には、警察も行けないものねえ」


 果林さんが言って、溜め息をつく。

 七都は目を大きく見開いて、果林さんを見つめた。


「あのドアの向こうのこと、果林さん、知ってたの?」


「リビングの掃除をするとき、一緒にあのドアも掃除してるの。一回だけ、コンクリートの壁とは違うものが見えたわ。怖くてすぐに閉めたけど。夢だと思うことにした。でも、心のどこかで、美羽さんはあそこに行ったのかもしれないって思ってた。そして、いつかあなたも行くんじゃないかって……。行ってたのね、やっぱり……。だけど、だけど、今でも信じられない」


「きみが向こうの世界を垣間見ていなかったら、ごまかすところなんだけどね。その必要がなくてよかった。連絡をもらってからここに帰ってくるまで、なんて言い訳しようかと悩んでた。七都が扉の向こうに行ったのは確実だと思ったしね」


 央人が果林さんに言った。


「あああ、信じられない。こんな現実離れしてる会話さえ、信じられない」


 果林さんがうなだれて、呟く。


「美羽に……会った?」


 央人が真面目な顔をして、七都に訊ねた。


「ううん。お母さんらしい人を少しだけ見かけたって人には会ったけど」

「そうか。やっぱり、きみも会えなかったか」


 央人は少し寂しそうに、だが納得したように、アイスグリーンの扉を眺めた。

 そして、果林さんにも七都にも聞こえないような小さな声で、ひとり言を呟く。


「彼女に会えるのは、結局、やはり、最後の最後ってことか。約束通り……」


「……っていうか、お母さんあの世界にいるの? あの世界の人なの?」

「ん? う、うん」


 央人は七都の質問に、慌てた様子で頷く。

 七都は、央人に詰め寄った。


「お父さん、お母さんのこと詳しく教えてよっ! 向こうの世界のことも、あのドアのこともっ。知ってるんでしょ、いろいろっ」

「ま、また、改めて時間を取ろう」


 央人は焦って、顔の前で両手を広げた。この場ではまずいよという意味が、その仕草には込められていた。

 七都は、はっとして振り返る。

 背後で果林さんが、消え入りそうなくらい悲しそうな顔をしていた。


「いいのよ。気を使わなくても。あなたの本当のお母さんのことだもの。遠慮はいらないわ」


 果林さんは言ったが、その複雑な表情はそのまま顔に貼り付いて消えなかった。


「ナチグロはもう、ご飯はすませたよ。きみも食べなさい」


 央人が言った。


「ナチグロ。……じゃなかった、ロビン!」


 七都が呼ぶと、ナチグロ=ロビンはちらりと眼差しを返したが、すぐに目を閉じてしまう。


「ああ、猫に戻ったら、話できなくなっちゃったかな」

「この猫は、向こうでは話をして、付箋の文字も読めるのか。やっぱり化け猫だったんだな」


 央人が言うと、ナチグロ=ロビンは『化け猫』という言葉に反応して、目を開けた。

 その緑の混じった金色の瞳は、少年の姿のときと変わりはない。


「ナチグロは、本当の名前はロビー何とかかんとかっていうらしいよ。ナチグロって名前は気に入ってないみたい。ロビンって、呼んであげて」

「ロビン? クックロビンか」


 ナチグロ=ロビンは、じろりと央人を眺める。


「ヘモグロビンとか」


 ナチグロ=ロビンは、ふうっと溜め息をつき、金色の透明な目を閉じてしまう。


「ロビンは、向こうでは、男の子なんだよ。中学生くらいの。結構美少年」


 七都は説明したが、ナチグロ=ロビンは無視して、眠ったふりをしていた。


「それで、ナナちゃんは、向こうでは何なのよ? お姫さまか何か?」


 果林さんが、少し自棄気味にたずねる。


「お姫さまかどうかわかんない。でも、まあ、自分で言うのもなんだけど、かなりの美少女だよ」

「緑っぽい黒髪で、目はワインレッドの美少女か?」


 央人が呟く。


「大当たり」


 七都は、口から思わず出そうになった質問を呑み込み、央人に軽く親指を立ててポーズして見せた。

 その質問――。


(お母さんもそうだったんでしょう? ねえ、お父さん?)


「で? 魔物退治でもするの?」


 ますます自棄気味の果林さんが言う。


「それは、しないけど……」


 七都は、言葉を濁した。

 実は魔物の側に属していて、人間に退治される立場だなどとは、何となく言えない。たとえシュールな会話とはいえ。


「そうだ、ロビンは、えーと、なんだっけ、泉州のそりゃそりゃマグロやりまわし仕立てとかいう猫缶がほしいって言ってたんだけど」

「それを言うなら、宇宙の逆ギレマクロスハヤセ仕立てだろ」


 央人が横から割り込んでくる。


「二人とも、違いますからね。ナナちゃんは、そのボケちょっと苦しいし、央人さんのは、アニヲタさんしかわかりませんから。あの猫缶はもう既に、ロビンくんのお腹の中で消化されてるところよ。いつもたくさん眠ったあとは、あの猫缶しか食べないの」


 気丈な果林さんが言った。

 平常心を取り戻そうとしているのが、痛いほどよくわかる。


「よかったね、ロビン。果林さん、きみの好きな缶詰のこと、ちゃんとわかってくれてたんだ」


 ナチグロ=ロビンは、もちろん寝たふりをして、七都を無視した。


 七都は、きちんと元の場所に戻された招き猫を見つける。

 向こうの世界から連れ帰った、黒い招き猫のドアストッパー。

 額には、七都が貼り付けた付箋がそのままの状態で残っている。耳の間あたりは傷だらけだ。それは、メーベルルが振り下ろした剣のあと――。


「果林さん、ごめんなさい。招き猫、傷だらけにして」

「いいのよ。向こうで何があったか知らないけど、なんか、ナナちゃんの身代わりになったって感じだし」

「うん。確かに身代わりになってくれた。あの招き猫、持って行って正解だった」

「……ナナちゃんだけじゃなくて、飼い猫まで、おまけに招き猫までっ!」


 果林さんは、ちょっとヒステリックに叫ぶように呟き、キッチンペーパーを破って、目と鼻をごしごしと拭いた。


 七都は料理が並んだテーブルにつき、果林さんが作ってくれた料理を片っ端から平らげた。

 自分ながら恐ろしい食欲だった。いつもの食事の十倍、いやそれ以上かもしれない。

 次々と器を空にしても、まだ満たされない。体が叫んでいる。まだまだ足りない。もっと栄養がいる。

 空になった食器がキッチンに積み重なり、果林さんは後片付けに追われる。

 わたし、大食いコンテストに出られるかも。

 七都は食べながら、ちらりと思う。

 とにかく空腹感を満たしたかった。

 だが、何でこんなに食べられるのだろう。そんなにたくさんのエネルギーを使ったということなのか。

 つまり、扉の向こうの世界にいるには、それくらいのとんでもないエネルギーがいるということか?


 大方の料理がなくなった後、七都の前に、いい香りがする熱い飲み物が置かれた。央人がコーヒーを入れてくれたのだ。


「あら、ナナちゃん、コーヒー飲めないのよ」


 果林さんが言ったが、七都は首を振る。


「ううん。もう大丈夫だと思う」


 七都は、コーヒーの香りをかいでみた。

 やはり同じだ。カトゥースのお茶と……。

 ナイジェルは、自分の家――お城だか宮殿だかかもしれないが――に帰ったのだろうか。

 あのカトゥースの手をどうしたのだろう。まだそのままなのだろうか。

 花は食べたのだろうか。ドライフラワーにして、枕の中に入れたのだろうか。

 そういえば、知らなかったとはいえ、魔王さまに向かって、恐れ気もなく『ノーテンキ』なんて言ってしまった。

 ちょっとヤバかったかなあ。

 でも、ナイジェル、笑ってたもの。きっと許してくれてるよね。

 たっぷりの砂糖とミルクを入れ、七都はコーヒーを飲んでみる。

 おいしい。熱い液体が、胃から体全体に行き渡り、隅々まで広がって行くような心地よさ。

 もう少し慣れたら、ブラックにしてもいいかもしれない。なぜ今まで飲めなかったのだろう。


「キリマンジャロがいちばんおいしいらしいよ。美羽によると」


 央人が言った。


「そうなんだ」


 それから央人は、いつになく真剣な顔をした。


「七都。きみがあのドアの向こうに行くことは、誰にも止められない。きみの半分はあの世界の住人だ。向こうでさまざまなものを見なければならないし、知らなければならない。そして、その上で、いろんなことを自分の判断で決めればいい。ただ、きみのもう半分は、この世界の人間なんだからね。ここはきみの家だ。いつでも安心して帰って来られるところだ。私はここで、いつでもきみを待っているよ」


 央人が、七都の頭に手を伸ばして、やさしく撫でた。

 父の手は、ナイジェルよりもあたたかかく、セレウスやユードほど熱くはなかった。


「はい……」


 七都は、頷く。


(お父さんは、お母さんを待ってはいないの? 待つのをやめたから、果林さんと結婚したの? お父さんは、扉の向こうの世界に行ったことあるの?)


 央人に聞きたいことは、たくさんある。改めて時間を取って、そのことも聞けるだろうか。

 果林さんは、元気のない、どこか思いつめたような顔をして、洗い物を続けていた。


 七都は、改めてリビングを眺めた。

 いつもと同じリビングに、いつもの家族。何げない、いつもの光景。

 だが、違う。

 七都が扉を開けたことによって、今までとは違ってしまった。

 もしかしたら、これまでと同じような生活には、もうならないかもしれない。

 この家で保たれていた均衡が、少し狂ってしまったかもしれない。そして、向こうの世界に行った代償として、何かを失うかもしれない。

 七都は、漠然とした不安を感じる。

 それでも――。

 また、行こう、向こうの世界へ。あの、穏やかな月が輝く、青い世界へ。

 行かなくてはならない。扉を開けてしまったのだから。

 動き出した変化は、もう元には戻せない。

 ナイジェル、セレウス、ゼフィーア、ティエラ、セージ。向こうで出会った人たち……。

 また、きっと会える。あなたたちに会いに行く。

 ユードにも、まあ、会ってもいいかな。また、おちょくっちゃおう。

 カディナは歳も近いし、友達になりたいけど、やっぱり魔神ハンターだし、それはちょっと無理かも。

 ロビンにも、たくさん質問しなければならない。こちらでは普通の猫だから、やっぱり、向こうで変身したときに聞かないと答えてはくれないよね。

 メーベルルのマントを着て、またいつか、きっと近いうちにドアを開ける。

 そして見極めよう、自分が何者なのか。ちょっと怖いけど、知りたい。知らなければならない。

 絶対風の城に行って、風の魔王リュシフィンに会う。


 七都は、コーヒーカップを持ったまま、リビングの真ん中にはめ込まれたアイスグリーンの扉を見つめた。

 昨日までは冷たく立ちはだかっているようだったその扉――。

 それは、今は親しげに、「いつでも開けてごらん」とでも囁いているかのように、七都には思えた。


  <ダーク七都Ⅰ・緑の扉 【完】>

最後まで読んで下さって、ありがとうございました。

シリーズ第2話「魔神の姫君 <ダーク七都Ⅱ> 」 http://ncode.syosetu.com/n4772bo/ を引き続きご愛読いただければ幸いです。

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