第49話:聚楽第の静寂
豊臣秀吉の帰還は、京の都に冷ややかな衝撃をもって迎えられた。
「北の果てで雪死にした」「九戸の鬼に首を討たれた」
――そんな不吉な噂が町中を駆け巡っていた矢先、生還した太閤の姿が突如として聚楽第の門前に現れたからだ。
諸大名たちは動揺した。
ある者は秀吉の生存を喜び、またある者はその権威がさらに強固なものに戻ることを恐れ、そして徳川家康の動向を密かに窺う者もいた。
しかし、当の聚楽第の内部は、かつての派手な宴や怒号が嘘のように、奇妙な静寂に包まれていた。
広間の一室。
秀吉は豪華な金屏風の前に座り、静かに茶をすすっていた。
その傍らには、石田三成と大谷吉継が控えている。三成は、主君のただならぬ様子の変化に気付き、緊張を隠せないでいた。
「殿下、奥州でのご様子……詳細にご報告を申し上げるべきかと」
三成が恐る恐る切り出すと、秀吉はふっと小さく笑い、茶碗を置いた。
「報告のう。九戸政実は生きとった。いや、あの男はあの雪原の王であったわ」
「では、討ち取れなかったと……?」
「討つどころか、命を拾わせてもらった。あいつに峰打ちを食らってな、転がり落ちたとき、ようやく目が覚めたのだよ」
吉継が静かに目を細める。
「殿下が、お気になされる必要はございませぬ。九戸の反乱はいずれ完全に鎮圧いたします。徳川殿をはじめとする諸侯の動きも、これより徹底して監視を――」
「三成、吉継」
秀吉の穏やかな、しかし有無を言わせぬ低い声が、二人の言葉を遮った。
「もうよい。諸侯を監視し、不穏な芽をすべて摘み取ることなど、今のわしにはもうどうでもよいのだ」
三成は息を呑んだ。
「どうでもよい、とは……? 殿下、天下の舵取りを放棄されるおつもりか!」
「放棄するのではない。手放すのだ」
秀吉は窓の外、聚楽第の庭に積もる名残の雪を見つめた。
「あの白き奈落で、わしは自分の『欲』という化け物の正体を見た。天下を統一し、日ノ本のすべてを我が物にしても、心の飢えは消えなかった。だが、あの冷たい雪の中で死に損なったとき、初めて気がついたのだ。人間が生きるというのは、誰かを踏みつけることではなく、ただその足元にある土を踏みしめることなのだと」
秀吉の言葉は、天下人としての狂気を孕んでいなかった。それは、すべてをやり終えた老人のような、あまりにも透き通った響きを持っていた。
「これからの政は、お前たち若い者で好きにするがよい。徳川が欲しければくれてやる。天下がどう転ぼうと、それはこの国が選ぶ道だ」
「殿下……!」
三成は目の前が真っ暗になるような思いだった。
自分が命を賭けて支え、忠義を捧げてきた「天下人・豊臣秀吉」という偶像が、目の前で静かに形を失っていく。
しかし、その背中は、かつてないほどに大きく、そして人間らしい温かさに満ちていた。
京の都は依然としてざわめいていた。
徳川屋敷の動きも活発化し、時代の針は確実に次の季節へ向けて回り始めている。
だが、聚楽第の中心にいる秀吉はもう怯えていなかった。
嵐の前の静けさの中、彼はただ静かに、自らの人生の幕引きと、新しい世界の芽吹きを見つめていたのだった




