第48話:帰還の足音
九戸城を後にした豊臣秀吉の軍勢は、往路の狂気と飢えが嘘のように、静まり返った隊列で南へ向けて進んでいた。
先頭を行く秀吉の表情は、かつての傲慢な輝きを失い、代わりに深く静かな陰影を湛えていた。
脇腹に残る峰打ちの鈍痛が、あの白銀の地で行われた「死闘」の現実を常に思い知らせている。
傍らを歩く近習の武士が、おそるおそる声をかけた。
「……殿下、京へ戻り次第、直ちに徳川の動きを抑え、諸大名の不穏な企てを粛清いたすべきかと。このままでは、京の都がどうなっているか……」
その言葉を、秀吉は片手を上げて制した。
「粛清だと? 誰をだ」
「は? それは、勝手な振る舞いをする諸侯や、淀に兵を回している徳川殿などでございますが……」
秀吉はかすかに苦笑した。その笑みには、かつての乱暴な余裕ではなく、どこか達観した響きがあった。
「もうよい。京の町がどうなっていようと、今のわしには驚かんよ。あの九戸の鬼に首を刎ねられかけ、自分の内にある飢えと醜さをすべて突きつけられたわしだ。……民が何を囁こうが、家康殿が何を企もうが、それはわしがこの国にまき散らした種の結末に過ぎぬ」
近習は言葉を失った。あの絶対的な自信と恐怖で天下をねじ伏せてきた太閤が、どこか一回り小さく、しかし底知れぬ深みを帯びた男に変わってしまっていたからだ。
数日後、秀吉の軍勢がついに京の郊外へと差し掛かった。
城下を通り過ぎる際、遠くの壁や橋のたもとに、あの日の「狂歌」の痕跡がうっすらと残っているのが目に入った。
「北の果て 猿は追われて……」
兵たちは気まずそうに目を伏せたが、秀吉はその看板の残骸をひと目見ると、ふっと声を出して笑った。
「『雪に消える猿』か。悪くはない詩だ。作った奴の顔が見てみたいものよ」
その姿に、迎えるために駆けつけた石田三成や大谷吉継らは息を呑んだ。
謹慎を解かれ、緊張の面持ちで出迎えた三成は、秀吉のただならぬ気配を察して思わずひざまずいた。
「殿下……ご無事で……」
「佐吉か。顔を上げよ」
秀吉は馬から降りると、三成の肩にポンと手を置いた。その手の温かさに、三成は胸が詰まる思いがした。
「京の留守、ご苦労だったな。……世間の風は、思った以上に冷たかったか?」
「はっ……申し訳ございません。私の不徳のいたすところ、京の町では様々な不穏な噂が飛び交い、私の力では抑えきれませんでした……」
「気にするな。風は吹くもの、噂は立つものだ。天下を獲ったとて、人の口に戸は立てられんよ」
秀吉はそう言って笑い飛ばすと、そのまま聚楽第の方角へ視線を向けた。
京の町は、相変わらず次の天下の主を窺うような、ざわめきと疑心暗鬼の空気に包まれている。
しかし、北の果てで「死」と向き合い、自らの慢心を一度殺してきた秀吉の眼には、もはやその不穏さすら、愛おしい世界の営みの一部として映っていた。
天下人・豊臣秀吉の帰還。それは、新たな混乱の始まりであると同時に、物語が次の重大な局面へと雪解けのように動き出す瞬間でもあった。




