第50話:それぞれの春
奥州の雪解けとともに、日ノ本の空気は目に見えない速度で変わり始めていた。
京の都では、かつての「雪に消える猿」の狂歌のざわめきが嘘のように消え去り、代わりに現実的な政の駆け引きが水面下で激しさを増していた。
秀吉が権力の座から身を引き、すべてを三成や吉継、そして諸大名の自主性に委ね始めたという噂は、瞬く間に諸侯の耳に届いたのである。
伏見の屋敷。
徳川家康は縁側に腰掛け、庭の桜の木から舞い散る花びらを静かに眺めていた。
その傍らには、本多正信が静かに控えている。
「殿、豊臣家中の動きに妙な淀みがござります。太閤殿下はもはや政に関心を示されず、三成殿らが必死に体制を維持しようとしておりますが、求心力は確実に揺らいでおります」
正信の報告を聞きながら、家康は茶碗を傾け、穏やかな笑みを浮かべた。
「秀吉殿は、すべてを見透かしておるのだよ。あの男は北の果てで、天下などという虚栄がいかにちっぽけなものであるかを知った。だからこそ、我らにこの国をくれてやったのだ」
「くれてやった、とは……?」
「あの方と戦う必要はもうない。天下の主が座を譲る気でいるのなら、我らはただ、その空いた器を静かに受け継ぐだけだ。……だが、焦るなよ、正信。時が来れば、自然と実る。それが天の理というものだ」
家康の目は、天下の覇権を見据えながらも、驚くほど冷静で冷徹な光を帯びていた。
一方、聚楽第の奥御殿。
かつての絢爛豪華な装飾はそのままに、そこには穏やかな時間が流れていた。
秀吉は床の間に腰掛け、目の前で庭の手入れをする若い職人たちの様子を、まるで孫でも見るような優しい目で眺めている。
そこへ、石田三成が息を切らせて駆け込んできた。
「殿下! 大変にございます! 諸侯の動きが活発化しており、このままではいつ、何が起きてもおかしくない状況に……!」
三成の焦燥しきった顔を見て、秀吉はふっと声を上げて笑った。
「三成、そんなに慌てるな。お主は相変わらず生真面目だな」
「殿下、笑い事ではございません! 私は殿下の築き上げたこの豊臣の世を、命に代えても守り抜かねばならぬのです!」
秀吉は立ち上がり、三成の肩にそっと手を置いた。
その瞳には、かつての野心家のそれではなく、すべてを受け入れた者の深い慈愛が宿っていた。
「守らなくていい。天下などというものは、誰かが永遠に抱え込めるものではないのだ。わしが作ったものは、やがて壊れ、そしてまた新しい形に生まれ変わる。それでいいのだよ」
「そんな……!」
「三成。お主は自分のために生きよ。誰かのためでも、この国のためでもなく、お主自身の心のために生きるのだ」
主君の言葉に、三成は言葉を失った。
目頭が熱くなり、胸の奥からこみ上げてくるものを抑えることができない。
それは、忠義の臣としてではなく、一人の人間として、初めてかけられた温かい言葉だった。
窓の外を見上げれば、京の都には新しい春の陽光が降り注いでいた。
狂乱の時代を駆け抜け、狂歌に嘲笑われ、雪原の果てで「死」と「生」を味わった天下人・豊臣秀吉。
彼の物語はここで終わりを迎えるのではない。
彼がまいた無数の種が、それぞれの季節を経て、次の新しい日本という大地で、静かに芽吹こうとしていた




