第39話:疑心暗鬼の宴
京の町衆が恐怖に慄く一方で、武将たちの動揺は、より具体的で殺伐とした形を呈していた。
豊臣秀吉という絶対的な「重石」が京を離れたことで、有力大名たちの屋敷は、連夜の密談による不穏な熱気に包まれていた。
福島正則の屋敷には、浅野幸長や加藤嘉明といった武闘派の面々が集まり、荒々しい酒宴が繰り広げられていた。
しかし、その顔に酔いの色はなく、あるのは焦燥と苛立ちだけだった。
「……殿下は…秀吉様は、本当に戻らぬつもりか?」
正則が盃を叩きつけるように置く。
「三成たちが謹慎させられ、殿下は北へ向かった。今の京には、殿下を諌める者も、軍を統率する者もいない。もし、あの地で殿下に万が一のことがあれば、我らは誰に従えばいい? 徳川殿か? それとも、あの『行方不明』の石田か?」
部屋の隅で、冷めた目で酒を飲んでいた黒田長政が、低く言った。
「徳川殿は、京の守りを固める名目で、既に淀城や伏見に兵を回し始めている。殿下が奥州で泥にまみれている間に、あの狸は日ノ本そのものを自分の庭にするつもりだ」
「何だと! ならば家康殿を討てばいい!」
正則の言葉に、長政は冷笑を返した。
「討つ? 誰が? 殿下の命もなしに徳川と争えば、それは即座に『反乱』だ。そうなれば、我ら全員が逆賊として処断される。……今の我々は、殿下の狂気に引きずり込まれるか、それとも次の天下人の足元に跪くか、その二択しかないのだ」
武将たちは押し黙った。
彼らは戦場での武勇には自信があるが、秀吉なき後の「政治的な真空」に対処する術を、何一つ持ち合わせていなかった。
一方、前田利家の屋敷では、より静かで深刻な空気が漂っていた。
五大老の一角である利家のもとに、諸大名の使者がひっきりなしに訪れていた。
その大半が、秀吉の帰還時期を問うものではなく、「もしもの場合」の指示を仰ぐものだった。
「皆、怯えているのだな」
利家は苦渋に満ちた表情で、畳に広げられた地図を見下ろした。
「殿下が九戸にこだわり、あそこを地獄に変えたことで、天下中の武将たちが『次の戦』の匂いを嗅ぎつけている。九戸政実という男は、殿下の命だけでなく、日ノ本の秩序をも切り裂いた」
「利家様、どうなさるおつもりですか」
側近が問う。利家は、遠く北の方角を見つめた。
「殿下には、生きて帰ってきてほしい。……だが、たとえ殿下がどのような姿で戻られようとも、今の豊臣家は、かつての豊臣家ではいられぬ。我ら大老の結束を固め、この混乱を抑え込むしかない」
しかし、その言葉に説得力はなかった。
大名の屋敷、茶室、密会所。あらゆるところで、秀吉の不在を「好機」と捉える者たちの目配せが交わされている。
秀吉が雪の中で政実と対峙している間に、京では「豊臣」という看板を食い物にするための、静かなる争奪戦が幕を開けていた。
誰もが口では「殿下の武運」を祈りながら、その心の中では、すでに新しい時代の地図を書き換えていたのである。




