第37話:凍土への進軍
慶長元年。冬の気配がまだ色濃く残る春先、豊臣秀吉の軍勢は、聚楽第を後にした。
その列は、かつての小田原征伐のような勇壮な凱旋の空気とは無縁のものだった。
行列の先頭を行く秀吉の姿は、黄金の鎧に身を包んでいるにもかかわらず、どこか幽鬼のように頼りなく、かつてないほどの威圧感と、得体の知れない静寂を纏っていた。
京の町民たちは、その行列を恐る恐る見送った。
太閤殿下は、奥州の鬼を狩りに行くのではない。
自ら生贄となって、何処かへ消えようとしている。
そんな不吉な噂が、都の路地裏を駆け巡っていた。
行列の最後尾、家康は馬上で静かにその背中を見つめていた。
「……行かれますか、殿下」
家康の隣には、謹慎を解かれていないはずの石田三成が、変装して密かに駆けつけていた。
三成の瞳は、主君を失うまいとする絶望的なまでの情熱で赤く充血していた。
「……三成殿、無理を申すな。今の殿下は、我々の届かぬ場所へ行ってしまわれた」
家康の静かな指摘に、三成は唇を噛みしめる。
「それでも、あの御方を一人で雪の中には置けぬ。あの男(政実)は、殿下の魂を食らうつもりだ。それだけは、何としても阻止せねばならん」
「貴殿の忠義には敬意を表する。だが、見よ。殿下の行列には、もうかつての豊臣の武士の顔がない」
家康の言う通りだった。
秀吉の周りを固めているのは、名もなき狂信的な兵や、主君の狂気を我が事のように楽しむ異様な雰囲気の徒党ばかりだった。
彼らは「勝利」を求めているのではない。ただ、天下人が崩壊していく様を、一番近くで眺めたいという倒錯した欲望で繋がっていた。
行列が京の門をくぐり、北へと向かう道に入ったとき、突如として空が暗転した。
季節外れの雪が、ぼたぼたと降り始める。
その雪は、まるで奥州の九戸政実が、自分たちの領域に近づくなと警告を発しているかのような冷たさだった。
秀吉は、馬上で空を見上げた。
その顔に笑みが浮かぶ。
それは、積年の執着が報われようとする者の、恍惚とした表情だった。
「聞こえるか、政実。わしは行くぞ。お前の待つ、あの白い地獄へ」
秀吉の独り言は、誰に聞かせるためでもなかった。
北へ向かう軍勢の足音が、雪に吸い込まれていく。
その音は、豊臣という王朝が、長い冬の眠りへと消えていくための葬送曲のように響いていた。
京に残された者たちは、ただ立ち尽くすしかなかった。
天下人・豊臣秀吉の、最後にして最大の戦が、この雪の中で幕を開けた。




