第31話:沈みゆく泥船の乗組員たち
深夜、聚楽第の奥深くにある小部屋。
そこには、石田三成の招集に応じた大谷吉継、小西行長、そして普段は沈黙を貫く黒田如水までもが顔を揃えていた。
「……殿下が、本気だ」
如水が絞り出すように言った。
その声には、戦略家としての絶望が混じっている。
秀吉の出陣は、単なる一武将の戦ではない。
天下人が国境の果てに身を投じるということは、豊臣政権そのものの「中心」が空洞になることを意味する。
「九戸政実。あの男一人を討つために、我らは天秤を壊そうとしている」
大谷吉継が、患った目を覆いながら静かに語る。
「もし殿下が北で命を落とせば……あるいは、あの方があの男に『人間性』を奪われ、狂乱の果てに帰還すれば、この国はどうなる。戦国は終わったはずなのに、また新たな火種が燻り始めるだろう」
小西行長が、壁に立てかけた地図を叩いた。
「我々が今すべきは、殿下の足止めだ。兵糧の輸送に難癖をつけるか、あるいは京の情勢が不穏だと虚偽の報告を上げるか……。方法はいくらでもある」
「しかし、それを殿下が見抜いた時、我ら全員が『逆賊』として処断されることになる」
三成の問いに、部屋は再び重い沈黙に包まれた。
彼らは秀吉を愛している。
だからこそ、今の秀吉を愛せない。
今の秀吉は、彼らが命を賭して築き上げた「豊臣の天下」を、自らの手で灰にしようとしているからだ。
「石田殿」
如水が鋭い視線を向けた。
「お前が殿下の最も近くにいる。……最後に聞く。殿下を、あそこへ行かせるのか?」
三成は、秀吉の部屋から戻った時の、あの孤独な背中を思い出した。
あの時、自分は何も言えなかった。
ただ、主君が壊れていくのを眺めることしかできなかった。
「……行かせるわけにはいかぬ。だが、力ずくで止めることもできぬ」
三成は立ち上がり、窓の外の月を見上げた。
「殿下はもう、自分自身を九戸という地へ『供物』として捧げるつもりなのだ。あの方を止める方法はただ一つ……。我々自身が、殿下の代わりに九戸へ行き、あの『鬼』を討ち取ることしかない」
「我らが、か?」
「そうだ。殿下がご自身で手を下す前に、我らだけで全てを終わらせる。あの地獄を、天下人の目から遮断するのだ」
家臣たちの顔に、微かな決意が灯った。
それは主君への忠義であり、同時に、暴走する太陽を地上の泥に引きずり下ろすための、冷徹な陰謀でもあった。
「……死地へ行く覚悟はできているか」
如水が短く問いかけ、全員が力強く頷いた。
聚楽第の闇の中で、彼らは秀吉を救うために、秀吉を裏切ることを決めたのだ。
それが、彼らにできる唯一の「天下への忠誠」であった。




