第29話:聚楽第の冷徹
聚楽第の一室。
灯火の揺らぎが、秀吉の顔に奇怪な影を落としていた。
三成は、奥州からの「包囲陣の惨状」を記した密書を、読み上げることもなく秀吉の前に置いた。
秀吉はそれを開こうともせず、ただ膝の上で拳を握りしめている。
「……三成。あやつらは、まだ全滅しておらぬのだろうな?」
秀吉の声は、以前のような怒りではなく、どこか遠い世界から聞こえるような、乾いた響きだった。
「はい。ですが……蒲生殿、浅野殿の精神はすでに限界にございます。兵たちの間では脱走や自害が相次ぎ、士気は地に落ちました。包囲網は、今や機能しておりませぬ」
三成の報告に、秀吉はふっと笑った。
それは、天下を獲った男の余裕ではない。
何かが完全に壊れてしまったかのような、空虚な笑みだった。
「そうか。あんなに騒いで、あんなに命を削って……たかが一領主を囲むために、わしの精鋭が泥の中で腐っていくか。滑稽だな、三成」
秀吉は立ち上がり、ゆっくりと部屋の中を歩き出した。
その動きは、先ほどまでの「狂った暴君」の荒々しさが嘘のように静かだ。
「三成よ。わしは、天下を平らげた。だが、あそこにいる政実という男だけが、わしの地図を塗り潰しに来たのだ。……あやつは、わしの『天下の夢』の唯一の綻びだ」
「……殿下、もはや、あの地に深入りするのは得策ではございませぬ」
三成が諫めようとした言葉を、秀吉は鋭い横目で制した。
「分かっている。わしとて馬鹿ではない。だが、このまま黙っていれば、わしの天下は『本物』ではなくなる。……三成、蒲生と浅野を切り捨てろ」
三成は息を呑んだ。
「切り捨てる、とは……?」
「援軍は送らん。これ以上の犠牲は、わしの天下の無駄だ。氏郷たちには、そのまま『死の包囲』を続けさせろ。彼らが九戸の牙をどれだけ削れるか、それだけが奴らの最後の役目だ。……彼らが死に絶えた時、次はわし自身が直々に軍を率いて赴く」
秀吉の言葉に、三成は背筋が凍るような戦慄を覚えた。
秀吉は、見捨てたのだ。
自分が選んだはずの忠臣たちを、単なる「時間稼ぎの駒」として使い潰すことに決めたのだ。
「自分の兵を……殿下、それはあまりでございまする!」
「わしは天下人だぞ。三成。個人の命など、天下の価値に比べれば羽毛よりも軽い。あやつらが凍死しようが、政実に切り殺されようが、どうでもよい。大事なのは、政実に『天下の力』を思い知らせることだ」
秀吉は窓を開け、夜の京の街を見下ろした。
その瞳には、かつて持っていた慈愛や恩賞への執着はなく、ただ冷徹な虚無だけが宿っている。
「三成、支度をせよ。次はわしが、直接地獄を見に行くと、奥州の二人に伝えておけ。生きて帰ってくることなど、期待していないとな」
三成は深く頭を下げた。
心中で、自分が信じていた「理想の天下人」が、音を立てて崩れ去るのを感じていた。
聚楽第の夜は、これまでになく静かで、凍てつくように冷たかった。




