第28話:陣営の腐敗
豊臣軍の包囲陣は、もはや「軍隊」の体を成していなかった。
凍てつく夜の闇を裂く、不規則な銃声。
それが毎晩、繰り返される。九戸兵たちは決して城から打って出ることはない。
ただ、遠くから威嚇射撃を加え、夜通し松明を焚いて陣の周囲を走り回るだけだ。
蒲生氏郷は、陣内の広間に置かれた火鉢の前で、震える手で茶をすすっていた。
不眠。終わりの見えない恐怖。
そして、何よりも兵たちの間に蔓延する「疑心暗鬼」が、氏郷の心を削り取っていた。
「……まただ。昨夜も、一睡もできなんだ」
浅野長政の声が、ひどく掠れている。
彼の目は充血し、頬はこけていた。
かつて京で秀吉から威風堂々と命を受けた男の面影は、どこにもない。
「氏郷殿、兵たちが……兵たちが夜中に叫び出すのだ。政実が来る、と。山が崩れる、と。あの大軍を率いていながら、我らは今や、夜の静寂に怯えるだけの臆病者だ」
「長政、それ以上言うな」
氏郷は遮った。
しかし、自分自身の心にも同じ言葉が渦巻いている。
窓の外を見れば、冷たい霧の中に、ぼんやりと九戸城の影が浮かんでいる。
あの城には、自分たちをただの「死にゆく餌」としか見ていない男がいる。
その事実に、胃の腑が焼けつくような屈辱を覚える。
「我らは、殿下の命でここに来た。だが、殿下は我らを見ているのか? それとも、あの政実という怪物だけを追っているのか……」
長政がふと漏らした疑問に、氏郷は答えられなかった。
秀吉の命は絶対だ。
だが、その命そのものが、いまや豊臣の精鋭を、ただの「雪山の肥やし」へと変えようとしている。
「蒲生殿、いっそ城へ突撃すべきではないか。このまま泥沼で精神を殺されるより、刃を交えて死ぬほうが、武士としては本望だ」
「突撃だと? それが奴の狙いだぞ」
氏郷は地図を叩いた。
そこには、これまで失われた兵たちの場所が、赤く塗りつぶされている。
「奴は、我らが飢え、狂い、最後の一兵まで自滅するのを待っているのだ。我らが突撃すれば、待ち受けているのはさらなる地獄の仕掛けだ。……今の我らに、勝算など一分もない」
二人の名将の間に、重苦しい沈黙が降りた。
秀吉の激怒を知る彼らは、撤退することも、負けを認めることも許されない。
かといって、勝利への道も閉ざされている。
その時、陣の外で再び「パーン!」と乾いた銃声が響いた。
近くのテントから、若い兵の悲鳴が聞こえる。
氏郷は顔を覆った。
「……我らは、天下人の道具に過ぎぬのか」
氏郷の呟きは、焚き火の音にかき消された。
遠い京の空の下で、あの男は今、何を想っているのか。
氏郷の脳裏には、冷徹に微笑む政実の顔が、悪夢のように焼き付いていた。




