第26話:歪む鏡
石田三成は、床に散らばる割れた茶碗の破片をまたぎ、秀吉の前に膝をついた。
部屋には、主君の荒い息遣いだけが響いている。
「殿下、一度、軍勢を引くべきでございます」
三成の言葉は、氷を打つように静かだった。
秀吉は、その言葉を理解するまで数秒を要したかのように、ゆっくりと三成へ顔を向けた。
「引け、だと……? 三成、お前もわしを馬鹿にするのか。あの山猿の前に、わしが尻尾を巻いて逃げろというのか!」
秀吉の目は、血走っていた。
かつて戦場で見せた、獲物を射抜くような鋭い目ではない。
自分の思い通りにならない現実を前に、必死に自己を正当化しようとする、焦燥に満ちた目だ。
「さにあらず。殿下の威光は、もはや天下に揺るぎないもの。しかし、今この瞬間の『感情』による兵の浪費は、豊臣の礎を蝕む毒となります。政実という男を過大評価する必要はございませぬが、この冬の奥州、今の軍勢で強行突破するのは、あまりに非効率でございます」
三成は努めて冷静に、秀吉が得意とする「損得勘定」に訴えかけた。
しかし、今の秀吉の心には、理屈というフィルターは残っていなかった。
「非効率? 損得? 三成、お前はわしを、そんな小さな男だと思っているのか!」
秀吉は机を蹴り上げ、三成の胸ぐらをつかんだ。
その手は細く、震えている。
三成は抵抗せず、ただ真っ直ぐに主君の目を見返した。
「殿下。殿下が見ているものは、九戸政実ではございませぬ。殿下の背後にある、『敗北』という名の鏡でございます。今、ご自身の姿が、鏡の中で歪んで見えているのではありませんか?」
部屋が静まり返る。秀吉の手が、ピタリと止まった。
「……歪んでいる、だと?」
「戦に負けたことなど、殿下にとって些事でありましょう。しかし、殿下が『感情のままに軍を動かし、無駄に兵を死なせ、天下を乱す者』と見なされることこそが、真の敗北でございます。政実如きに、殿下の天下の価値を貶めさせてはなりませぬ」
秀吉の顔から、急速に赤みが引いていった。
三成の鋭い指摘が、秀吉の心の奥底にある、隠しておきたかった「恐怖」を突き刺したのだ。
自分が天下人として、かつての織田信長のように「暴君」としてしか評価されなくなることへの、根源的な恐怖。
「……三成」
秀吉の声は、先ほどまでの獣のような咆哮から、枯れ果てた老人のような響きに変わっていた。
「わしは……わしは、正しく天下を収めているのだな?」
「左様にございます。故にこそ、北の山猿ごときに、殿下の心を乱す資格などないのです」
三成は静かに頭を下げた。
秀吉は力なく手を離し、椅子に深く沈み込んだ。
その背中は、つい先ほどまで天下を支配していた男のものとは思えないほど、小さく見えた。
「……分かった。九戸への軍勢は、一度『包囲』に切り替えろ。冬が終わるまで、一歩も外に出さず、ただ死ぬのを待て。これならば……兵を無駄にせぬ、賢明な策と言えるな?」
秀吉は震える手で、空の茶碗を掴んだ。
三成は「はっ」と答えたが、その胸には暗い影が落ちた。
秀吉はまだ、あの「北の鬼」という存在に魂を奪われたままだ。
この「包囲戦」という決断は、果たして本当に救いになるのか。
それとも、さらに恐ろしい事態への入り口なのか。三成には、答えが出なかった。




