第25話:帝王の綻び
聚楽第の奥の間から聞こえる、獣のような罵声。
それが止んだ後も、廊下には重苦しい沈黙が張り付いていた。
石田三成は、柱の陰で冷や汗を拭った。
側近として太閤の最も近くに仕える彼にとって、今まさに繰り広げられた光景は、戦慄以外の何物でもなかった。
「……あの方のあのようなお姿、太閤となられてからは一度も見たことがございませぬ」
小声で隣に立つ武将が呟く。
その顔は蒼白だ。
かつて秀吉が織田信長に仕えていた頃、あるいは播磨や中国攻めをしていた頃の、あの狂気じみた荒々しさ。
天下を掌中に収め、穏やかな統治者としての顔を纏っていたはずの太閤が、九戸という一点に触れただけで、化けの皮を剥がしたかのように取り乱している。
「九戸政実……あの男、一体何者なのだ」
三成は心の中でそう問いかけた。
兵力、戦術、気候の利用。報告を聞く限り、政実は非常に理知的だ。
対する太閤は、いまや感情の制御を失った「怒れる猿」と化している。
冷静に戦況を分析し、最適解を導き出そうとする側近たちに対し、秀吉はただ「全滅させろ」「消し去れ」という、軍略とは到底呼べぬ破壊衝動を突きつけてくる。
「三成殿、これ以上は……。このままでは、豊臣という家そのものが、北の雪山で凍りついて終わってしまうのではないか」
側近たちの間には、疑念が広がり始めていた。
主君の怒りは理解できる。
しかし、それはもはや、かつての誇り高き覇者のそれではない。
何かに怯え、自分の理想とする完璧な天下が崩れることを恐れる、老いた男の執着だ。
「氏郷殿と長政殿のあの惨状……。もし、次に送られる軍勢も同じ結果になったら、太閤はどうされるつもりだ」
三成は返答できなかった。
もし失敗すれば、秀吉はさらなる怒りに身を任せ、国中の軍勢を北に注ぎ込むだろう。
それは、奥州を滅ぼすことには繋がるかもしれないが、同時に中央の統治を揺るがし、豊臣家の威信を永久に失墜させることに他ならない。
「……我々が止めねばならぬ」
三成は静かに決意した。
たとえ、秀吉に不忠者と罵られようとも、今の狂気から主君を救わねば、天下そのものが終わる。
「だが、あの『鬼』を相手に、今の我らに何ができる? 戦術で勝てぬ相手を、どうすれば……」
その時、広間の扉が激しく開き、秀吉の怒鳴り声が再び轟いた。
家臣たちは一斉に平伏する。
その背中を、言い知れぬ寒気が駆け抜けた。
九戸の氷よりも冷たい、絶対的な崩壊の予感が、聚楽第を支配していた。




