表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13

佐藤さわりの霊障事件簿 内科医の土人形

都市の片隅で、ふとした瞬間に「日常がひび割れる」ことがある。

誰もが普通に暮らしているはずの場所で、誰かの心だけが静かに壊れていく。

この物語を書き始めたとき、私はそんな“ひび割れ”を描きたいと思っていた。

当初は、医師が薬に混ぜ物をし、それを飲んだ患者が暴徒化する――

そんな、現実と非現実の境界が曖昧になる話を想定していた。

しかし、書き進めるうちに、物語は思いがけない方向へと歩き出した。

母と子の情念。

喪失が生む歪み。

そして、静かに忍び寄る霊の影。

気づけば、私は“暴徒化する患者”よりも、“ひとりの母の絶望”に引き寄せられていた。

物語は作者の手を離れ、別の形を選んだのだと思う。

この作品は、そんな「予定調和から外れた物語」の記録である。

第一章:美貌の内科医の慟哭

都会の中心部。

ガラス張りのタワーマンションが林立し、昼夜を問わず光が降り注ぐその一角に、ひっそりと「田茂咲クリニック」はあった。

高層ビルの三階、白い壁に淡い金色の文字で掲げられた看板は、どこか上品で、そして妙に人を惹きつける。

院長・田茂咲魔佐江。

背が高く、肩にかかる茶髪はいつも丁寧に整えられ、細身の体は白衣を纏うと一層映える。

その美貌を一目見ようと、症状が軽い患者までが列を作るほどだった。

「魔佐江先生、今日もお願いできますか」

「先生に診てもらえると安心するんです」

待合室はいつもそんな声で満ちていた。

魔佐江は微笑み、淡々と診察をこなしていく。

その横顔には、医師としての自信と、母としての柔らかさが同居していた。

だが、その日。

クリニックの空気は突然、凍りつく。

受付に置かれた電話が鳴り、看護師が慌てて魔佐江を呼んだ。

「先生、小学校から……至急とのことです」

魔佐江は受話器を取った。

次の瞬間、彼女の手が震え始めた。

――七十歳の男性が運転する車が、小学校の門に突っ込んだ。

――帰宅途中だった娘・まゆみが巻き込まれた。

「……え?」

声にならない声が漏れた。

白衣の裾が揺れ、髪が乱れ、魔佐江の表情から血の気が引いていく。

「ま、魔佐江先生……?」

看護師が肩に触れたが、その言葉は届かない。

魔佐江は診察室を飛び出し、クリニックを閉めると、タクシーに乗り込んだ。

本当は走り出したい。叫びたい。

だが、病院の廊下では走れない。

その事実が、彼女の焦燥をさらに締めつけた。

病室に入った瞬間、魔佐江は息を呑んだ。

ベッドの周囲には静寂が漂い、延命装置はすでに外されていた。

「……まゆみ……?」

膝が崩れ、床に手をつく。

視界が揺れ、世界が音を失った。

その日を境に、魔佐江のクリニックはしばらく閉院した。


魔佐江の住むタワーマンション。

リビングの中央には、小さな棺が置かれていた。

魔佐江はその前に座り込み、声を押し殺して泣き続けた。

涙が尽きても、胸の奥の痛みは消えない。

ふいに、部屋の灯りがふっと消えた。

停電だ。

だが、魔佐江は気にも留めない。

そのとき――

窓の外から、影がすっと滑り込んできた。

「……あなたは?」

恐怖よりも、虚無が勝っていた。

男は薄笑いを浮かべ、低い声で言った。

「わしの名前なんぞどうでもいい。お前の望みを叶えてやろう」

「……望み?」

外では雨が降り始め、雷鳴が遠くで響いた。

次第にその音は近づき、部屋全体が青白い光に照らされる。

雷が連続して落ちた瞬間、魔佐江の体に異変が走った。

茶色の髪が黒く染まり、そして一気に白へ。

目は吊り上がり、赤く変色し、鼻は鋭く伸び、口は耳元まで裂けた。

歯は細く尖り、獣のように光る。

「……いひひひ……」

その笑いは、魔佐江自身のものではなかった。

次の瞬間、姿は元に戻った。

だが、彼女の中で何かが確実に変わっていた。

同じ頃。

事故を起こした七十歳の男・片倉和人は、自宅のマンションで酒をあおっていた。

「捕まる? 嫌だ……牢屋なんか……」

妻は亡くなり、子どもたちも独立し、彼は孤独だった。

酒だけが唯一の慰めだった。

その夜も、酔ったまま深夜のドライブに出た。

雨の降る一本道を走っていると、若い女性が横切った。

ブレーキは間に合わなかった。

「……まただ……」

だが、倒れたはずの女性の姿はどこにもない。

安堵し、車に戻ろうとしたとき、車は勝手に動き始めた。

「なんでだ……?」

気づけば、大きな湖のそばを走っていた。

ガードレールを突き破り、車は湖へと落ちていく。

水面に突き刺さるように沈んでいく車。

片倉の意識は遠のいた。

その身体を、湖の底から何かが掴んだ。

磯女のような影が、彼を天へと引きずり上げていく。

片倉はもう、何も感じていなかった。


第二章:田茂咲クリニック、再び灯る

数週間の沈黙を破り、ある朝、田茂咲クリニックのシャッターがゆっくりと上がった。

通りを歩く人々が気づき、ざわめきが広がる。

「開いた……?」

「先生、戻ってきたのかしら」

看護師たちは急いで出勤し、扉を開けた魔佐江の姿を見て息を呑んだ。

「魔佐江先生……本当に大丈夫なんですか? 無理は……」

「ふふ……大丈夫よ」

その声は以前より低く、どこか湿った響きを帯びていた。

白衣の下の体は以前と変わらず細いが、立ち姿には妙な影が差している。

目の奥に、深い夜のような暗さが宿っていた。

患者たちは再開を知ると、次々に押し寄せた。

「先生、心配してたんですよ」

「戻ってきてくれてよかった……」

魔佐江は微笑んだ。

だが、その笑みはどこか皮膚の表面だけで作られたような、冷たいものだった。

「ごめんなさいね。大丈夫よ、あなたたちなら」

診察室に入ると、魔佐江はいつものように聴診器を当て、患者をベッドに寝かせた。

上半身を軽く押し、腹部に手を添える。

「う……ん、胃と腸の力が落ちているわね。薬を出すから、しばらく飲んでちょうだい」

その手つきは優しい。

だが、触れられた患者はなぜか一瞬、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

クリニックの奥には、魔佐江が独自に開発した“薬を生成する装置”がある。

市販されていない、特別な処方。

患者たちはそれをありがたがり、笑顔で帰っていく。

帰り際、魔佐江は小さな紙袋を差し出した。

「これはね、あたしが作った土人形。病気が治るおまじないよ。持っていてほしいの」

五センチほどの素朴な土人形。

丸い顔に、簡素な目と口。

どこにでもありそうで、しかし妙に温度を感じる。

「僕だけですか?」

「ずいぶん自惚れてるのね。ええ、そうよ」

患者は照れながら受け取った。

だが実際には、魔佐江は多くの患者に同じ人形を渡していた。

その夜。

人形を受け取った患者の一人は、家の棚の一番見える場所にそれを置いた。

魔佐江先生からの贈り物だ。

それだけで、病気が良くなる気がした。

だが、夜中にふと目を覚ますと、人形の向きが変わっていた。

まるでこちらを見ているように。

「……気のせいだよな」

そう言い聞かせて再び眠りについたが、夢の中で自分が車にはねられる光景を見た。

目覚めたときには寝汗で全身が濡れていた。

その日を境に、彼の体調は急激に悪化した。

食事も喉を通らず、体は日に日に弱っていく。

田辺史郎。

若いが胃弱で、ネットで評判の田茂咲クリニックに通い始めたばかりだった。

だが、彼もまた、診察を受けた日から寝込むようになった。

不安になった田辺は、自分の症状を検索し続けた。

そして、あるキーワードに行き着く。

――霊障探偵・佐藤さわり。

その名を見た瞬間、田辺は震える手で連絡を取った。


第三章:霊障探偵・佐藤さわり

佐藤さわりは、都心の雑踏を歩いていた。

黒縁眼鏡の中央には小型カメラが仕込まれ、彼女の視界をそのまま記録している。

身長は百六十センチほど。小柄だが、歩く姿には妙な存在感があった。

政治記者としての肩書きを持ちながら、

いまや彼女のもとに寄せられる依頼の多くは“霊障事件”だった。

「……霊障事件じゃ生活は楽にならないのよね」

独り言のように呟きながら、古びたアパートの前に立つ。

田辺史郎の住む、二階建てのボロアパートだ。

呼び鈴を押す。

反応はない。

「留守? それとも……嫌がらせ?」

もう一度押す。

静寂。

雨の気配が近づいている。

帰ろうと踵を返した瞬間、

アパートの扉がゆっくりと開き、田辺が這うように姿を現した。

「……佐藤さん、ですか……?」

「佐藤さわりです。立てますか?」

田辺は青ざめ、汗で髪が額に張りついていた。

息は浅く、声は震えている。

部屋に入ると、湿った空気と薬の匂いが漂っていた。

布団は乱れ、机の上には飲みかけの水と、例の土人形が置かれている。

「……診察を受けた日から、急に……体が……」

田辺は途切れ途切れに語った。

胃の痛み、倦怠感、悪夢。

そして、棚の上の土人形が夜ごと向きを変えるという話。

さわりは人形を手に取り、軽く振った。

中で何かが転がる音がした。

「……なるほど」

彼女の眼鏡の奥の瞳が、わずかに鋭く光った。

田辺の話を聞き終え、アパートを出たさわりは、雨の匂いを含んだ風を吸い込みながら歩き出した。

最近、奇妙な病で倒れる人が増えている。

その噂は、政治記者としての情報網にも引っかかっていた。

だが、今日確信した。

――被害者たちには共通点がある。

――皆、田茂咲クリニックに通っている。

「……やっぱり、あのクリニックね」

さわりは傘を開き、静かに歩き出した。

雨脚は強まり、街の灯りが滲んで見える。

その光景の中で、彼女の背筋には、

確かに“何か”の気配がまとわりついていた。


第四章:対決

佐藤さわりは、あえて健康な体で田茂咲クリニックを訪れた。

受付の看護師は驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑顔を作った。

「最近、胃の調子が悪くて」

さわりはそう言って診察室に入った。

魔佐江は白衣姿で立っていた。

以前よりも痩せたように見えるが、微笑みは変わらない。

「では、診てみましょうね」

聴診器が胸に当てられ、ベッドに横たえられる。

上半身を軽く露わにし、腹部に魔佐江の手が触れた。

その手は妙に冷たかった。

「う……ん、特に異常は見当たらないわ。軽い胃薬を出しますね」

さわりは起き上がり、机の上に置かれた土人形に目を留めた。

「素敵なお人形ですね」

「ああ、これ?」

魔佐江は微笑む。

「何人形なんですか?」

「気に入ったなら、一つ差し上げますよ」

「いえ、そんな……悪いですし」

「大丈夫。たくさんありますから」

その言葉に、さわりの背筋がわずかに冷えた。

クリニックを出た後、さわりは周囲の人々に魔佐江の評判を尋ねて回った。

誰もが口を揃えて「良い先生だ」と言う。

事故の話も聞いた。

娘を亡くした悲劇。

その後の休診。

そして、突然の再開。

――だが、誰も“異変”には気づいていない。

夜。

自宅のドアに鍵を差し込んだ瞬間、耳元で声がした。

「余計なことはするな」

「……!」

振り返っても誰もいない。

だが、霊障に敏感なさわりには、声の主が誰かすぐに分かった。

部屋に入り、眼鏡の録画データをパソコンに取り込む。

診察室の映像が再生される。

魔佐江が振り返った瞬間、画面がわずかに揺れた。

コマ送りにすると――

魔佐江の姿は、さわりが見たものとは違っていた。

白髪が乱れ、目は赤く吊り上がり、口は裂け、歯は尖っている。

そして何より、影がなかった。

「……やっぱり、あなたは“魔女”になっているのね」

さわりは静かに呟いた。

テーブルの上には、魔佐江から渡された土人形が置かれている。

手に取って振ると、コトコトと小さな音がした。

「……鳴るのね」

外では雨が降り始め、雷鳴が近づいてくる。

そのとき、さわりの手が滑り、人形が床に落ちた。

首が外れ、中から白い小さな欠片が転がり出る。

骨だった。

「……これは、火葬された娘さんの骨……?」

その瞬間、窓の外の闇が揺れた。

次の瞬間、魔佐江がすっと部屋に入り込んだ。

もう人間ではない。

霊そのものの姿だった。

「あたしの子供……返して」

さわりは反射的に玄関へ走り、エレベーターのボタンを押した。

だが、魔佐江の動きは速い。

エレベーターが来るより早く、背後に迫ってくる。

階段へ飛び込み、上へ駆け上がる。

雨の音、雷鳴、魔佐江の足音が混ざり合う。

「おまえは許さない……!」

魔佐江の姿が変わる。

白髪が逆立ち、赤い目が光り、鼻は鋭く伸び、口は耳まで裂けた。

尖った歯がぎらりと光る。

「まゆみちゃんに危害を加えるものは許さない……!

あたしからまゆみを奪った人間が憎い……皆、地獄に連れて行く……!」

階段の踊り場で、さわりは振り返った。

逃げ道はない。

雨で全身が濡れ、息が荒い。

だが、手には壊れた土人形があった。

「……あなたの“呪い”は、ここで終わりよ」

さわりは魔佐江に向かって土人形を投げつけた。

その瞬間、空が裂けるような稲光が走った。

雷が魔佐江を直撃し、白い閃光が階段を満たす。

光が消えたとき――

魔佐江の姿も、人形も、すべて消えていた。


エピローグ

佐藤さわりは、びしょ濡れのまま自宅のドアを閉めた。

階段での激しい雷光の余韻がまだ瞼の裏に残っている。

手の中には、土人形からこぼれ落ちた小さな骨があった。

それは、まゆみさんが生きた証。

タオルで髪を拭きながら、さわりは骨を小さな布に包み、机の上にそっと置いた。

雨はまだ降り続いている。

夜の街は静かで、どこか遠くの雷だけが低く響いていた。


翌日。

さわりは近所の禅秀の寺院・当選寺を訪れた。

境内には朝の湿った空気が漂い、木々の葉が雨粒を落としている。

事情を聞いた和尚は、深く頷いた。

「……その子も、母も、苦しかったのでしょう。供養いたしましょう」

読経が静かに響き、骨は丁寧に納められた。

小さな木の墓標には、墨でこう記されていた。

「田茂咲魔佐江・まゆみ霊位」

さわりは手を合わせた。

木の墓標は雨風に晒されれば、いずれ朽ちてしまうだろう。

だが、それでいいのかもしれない。

二人の苦しみも、憎しみも、少しずつ風に溶けていくのだ。

供養を終え、和尚と本堂の縁側でラテを飲んだ。

湯気がゆっくりと立ちのぼり、雨の匂いと混ざる。

「母というものは、時に自分を失うほど子を想うものです」

和尚の言葉に、さわりは静かに頷いた。

魔佐江とまゆみ。

二人の写真が、今もどこかで寄り添っている気がした。

その頃。

魔佐江の住んでいたタワーマンションでは、管理人が異変に気づき、部屋を開けていた。

リビングの中央に、魔佐江が倒れていた。白髪で朽ち果てている。

まるで、最後まで娘を抱きしめようとしていたかのように。

棚の上には、魔佐江とまゆみが笑って写る写真が置かれていた。

骨壺には、まゆみの骨がまだ残っている。

家族も親族もいない。

自治体は二人を無縁仏として、静かに処理することを決めた。

誰にも知られず、誰にも語られず、

二人の物語はようやく幕を閉じた。

(完)

書き終えてみると、最初に思い描いていたものとはずいぶん違う物語になった。

医師の陰謀や薬の恐怖よりも、

田茂咲魔佐江という一人の母の“壊れ方”が中心になってしまった。

その結果、派手さはないかもしれない。

読者によっては「もっと刺激がほしい」と思うかもしれない。

私自身も、書き終えた直後はどこか物足りなさを感じた。

だが、時間が経つにつれ、

魔佐江とまゆみの影が、静かに心に残り続けている。

人は、愛する者を失ったとき、どこまで壊れてしまうのか。

その壊れた心が、どんな形で世界に滲み出すのか。

この物語は、その問いに対するひとつの答えだったのかもしれない。

佐藤さわりは、また別の事件に向かうだろう。

だが、彼女の眼鏡には、きっと今も

“影のない魔佐江”の姿が焼きついている。

読んでくださった方に、

この静かな恐怖と余韻が、少しでも届けば幸いである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ