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佐藤さわりの霊障事件簿 悪魔ヴェルス

佐藤さわりの霊障事件簿も、気づけば十作を超えました。

日常のすぐ隣にある“異物”を描くというシリーズの軸は変わりませんが、今回はその中でも少し異質な存在――悪魔ヘルマン・ヴェルスを扱っています。

似顔絵という、ごくありふれた行為。

上野公園という、誰もが知る場所。

その中に、ひっそりと紛れ込んだ“食うもの”の気配。

悪魔をどう退治するかは、最後まで悩みました。

派手な戦いにすることもできましたが、佐藤さわりという人物の性質を考えると、静かで、しかし確実に“核心を突く”決着がふさわしいと感じました。

人の姿を借りて魂を描き取る悪魔。

その正体が、意外にも身近な生き物に結びついていたという落差も、今回の物語のひとつの味わいになれば幸いです。

第一章:異物の来訪と絵描き

新政権が誕生してから、日本の街の空気はどこか乾いていた。前政権のような中国寄りの政策は見直され、中国人観光客の姿は目に見えて減った。浅草の仲見世通りも、以前の喧騒が嘘のように静まり返っている。

そんな中、ひとりの外国人が成田空港に降り立った。

ヘルマン・ヴェルス。ドイツ国籍、三十代前半。入国審査を通過した彼は、黒いコートの襟を立て、無言で到着ロビーへと歩き出した。

監視カメラには、彼が人混みの中へ紛れ込む姿が映っていた。

しかし、その先の映像には彼の姿はなかった。

まるで、空気に溶けるように消えていた。

以後、誰も彼を見ていない。

*

茶倉和人(ちゃくら かずと)は、上野公園の片隅に腰を下ろしていた。

茨城から上京し、東京の芸術大学に通う売れない絵描き。授業のない日は、こうして公園で似顔絵を描き、わずかな金を稼いでいる。

ただし、彼にはひとつだけ奇妙なこだわりがあった。

――男は描かない。

今日も、酔っ払いがふらふらと近づいてきた。

「兄ちゃん、うまく描いてねえ」

「僕は男性は描きません」

「かたいこと言うなよ」

男は一万円札をひらつかせ、茶倉の頭上で揺らした。

茶倉は無表情のまま、短く答えた。

「描きません」

酔っ払いの顔がみるみる赤くなる。

「下手に出てりゃいい気になりやがって!」

「……では描いて差し上げましょう。ただし――後悔しますよ」

茶倉は紙を取り出し、鉛筆を走らせた。

酔った男は目を大きく見開き、にやにやと笑っている。

「おお、うまいじゃねえか」

男はふらつきながら公園の出口へ向かった。

その途中で、突然しゃがみ込み、そのまま動かなくなった。

道行く人は誰も気に留めない。酔いつぶれた男など珍しくもないからだ。

だが、茶倉の前には、ひとつだけ異様な光景があった。

男の鼻から、小さな白い玉のようなものがふわりと浮かび上がり、ゆっくりと茶倉のもとへ漂ってきたのだ。

茶倉は口を開け、それを吸い込んだ。

苦虫を噛み潰したような顔をして、ぺっと吐き出す。

「不味い。……親父は不味いね。まあ、今さらだけど」

茶倉は淡々と道具を片付け、店じまいをした。

*

翌朝。

休日の上野公園は、まだ人影もまばらだった。西郷隆盛像へ続く階段の下で、茶倉はいつものように座っていた。

そこへ、若いカップルがやってきた。

竹内与志夫と小島まゆみ。手をつなぎ、楽しげに笑い合っている。

「僕たち二人の似顔絵、描いてほしいんです」

「僕は男は描きません」

「そんなこと言わないでよ」

茶倉は黙ったまま視線をそらした。

竹内は困ったように笑い、折れた。

「じゃあ……彼女だけでいいよ」

「彼女さんの似顔絵ですね。かしこまりました」

その声は、客に向けるものとは思えないほど低く、冷たかった。

茶倉は紙に向かい、迷いなく線を引いていく。

まゆみは最初こそ楽しげにしていたが、ふと首元に違和感を覚えた。

「えっ……?」

竹内が驚いた声を上げる。

「まゆみ、首……血が出てる!」

「え?なにが?」

まゆみが触れると、指先に赤いものがついた。

小さな傷から、じわじわと血が流れている。

茶倉はすでに描き終えていた。

その似顔絵は、二人が息を呑むほど美しく、そしてどこか不気味だった。

二人は礼を言い、絵を抱えて帰っていった。

しかし、帰り道でまゆみは急に足を止めた。

「なんか……変な感じがする」

竹内が顔を覗き込むと、まゆみの表情が、ほんのわずかだが老けて見えた。

「え……?」

竹内は言葉を失った。

まだ数時間しか経っていないのに、まゆみの顔は確かに“劣化”していた。

その日のデートは中止になった。


第二章:蝕まれる影

小島まゆみのアパートは、白い壁紙と観葉植物が並ぶ、若い女性らしい部屋だった。

その一角、よく見える場所に、昨日描いてもらった似顔絵が飾られている。

紙の中のまゆみは、どこか艶めいて、現実よりも美しく見えた。

しかし、朝。

洗面所の鏡を覗き込んだまゆみは、思わず二度見した。

「……え?」

鏡の中の自分は、昨日よりもわずかに老けていた。

目の下の影が濃く、頬の張りが失われ、どこか疲れ切ったような顔をしている。

体も重い。

何かをしようという気力が湧かない。

まゆみはインフルエンサーとしてSNS発信を欠かさないが、その日の投稿にはすぐにコメントがついた。

「なんか今日、老けてない?」

「大丈夫?疲れてる?」

「顔色悪いよ」

まゆみはスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。

*

一週間が過ぎた。

朝起きるのがやっとで、会社も休んでいる。

部屋の中は薄暗く、カーテンを開ける気力すらない。

そこへ、竹内与志夫が訪ねてきた。

「まゆみ……どうしちゃったんだよ」

ドアを開けた瞬間、竹内は息を呑んだ。

ベッドに横たわるまゆみは、まるで別人のようにやつれていた。

肌は乾き、髪は艶を失い、目は虚ろに沈んでいる。

SNSでは、まゆみの変貌を心配する声が増えていた。

「病院行って!」

「なにかおかしいよ」

「霊障じゃない?」

竹内はまゆみを支えながら病院へ連れて行った。

血液検査、レントゲン、心電図。

できる検査はすべて行われた。

しかし、医者の言葉はあまりに軽かった。

「ストレスではないでしょうか」

「先生、それはないですよ。ストレスでこんな……」

「鬱になると、何もできなくなります。朝起きても何もする気になれない。躁鬱病というものがありますが、躁のときは危険ですが、鬱のときは自殺などはしませんので、安心といえば安心です」

竹内は唖然とした。

まゆみはぼんやりと宙を見つめ、生気がない。

医者はカルテを閉じ、言いにくそうに口を開いた。

「……精神科か、あるいは霊障の専門家に相談するのも一つの手です」

「霊障?」

「佐藤さわりさんという方が、いくつもの霊障事件を解決していると聞いています」

竹内はすぐにスマホを取り出し、佐藤さわりを検索した。

SNSのおかげで、連絡はすぐについた。

*

その日の夕方。

佐藤さわりがまゆみの部屋にやってきた。

身長160センチほどの小柄な女性。

黒髪はチューリップのように丸く揃えられ、黒縁眼鏡の中央には小型カメラが仕込まれている。

肩から下げた鞄には、五七の桐のキーホルダーが揺れていた。

佐藤は部屋に入るなり、まゆみの顔を見て表情を引き締めた。

「……このままでは死んでしまうわ」

竹内は震える声で事情を説明した。

佐藤は黙って聞き、部屋の中を見回す。

そして、壁に飾られた似顔絵に目を留めた。

「これは……単なる似顔絵ではないわね」

紙の中のまゆみは、現実の彼女よりも若く、美しく、そしてどこか妖艶だった。

その美しさは、まるで“何か”を吸い取って輝いているように見えた。

「この似顔絵、どこで描いてもらいましたか?」

佐藤の声は低く、確信に満ちていた。


第三章:佐藤さわり、影に触れる

佐藤さわりは、竹内からの話を聞き終えると、すぐに上野へ向かった。

まゆみの顔に刻まれた異常な老化。

飾られた似顔絵の、あの不自然な艶。

そして、絵を描いたという男――茶倉和人。

すべてが一本の線でつながっていると、佐藤は直感していた。

上野公園は夕方の光に沈み、観光客の姿もまばらだった。

階段の下、木の影に紛れるようにして、茶倉は座っていた。

黒い服に、沈んだ目。

まるで人間の形をした“空洞”のようだった。

「似顔絵をお願いしたいんですが」

佐藤が声をかけると、茶倉はゆっくりと顔を上げた。

その目は笑っていないのに、どこか愉悦を含んでいる。

「……どうぞ」

愛想はない。

しかし、手は迷いなく紙を取り出し、鉛筆を走らせ始めた。

佐藤は、描かれる間じっと茶倉の手元を見つめていた。

線は滑らかで、迷いがなく、異様なほど速い。

まるで、すでに完成形が頭の中にあるかのようだった。

「できました」

紙を受け取った瞬間、佐藤は息を呑んだ。

そこに描かれていたのは、現実の自分よりもわずかに若く、そしてどこか“魂の輪郭”まで写し取ったような自分だった。

「これは……すごいわ」

そのときだった。

左手の小指に、ぬるりとした感覚が走った。

「……あれ?」

見ると、小指の先から血が一滴、地面に落ちていた。

どこかにぶつけた覚えはない。

茶倉の目が細くなり、口元がわずかに歪んだ。

「気をつけて帰るといいですよ」

その声は、忠告ではなく“宣告”のように聞こえた。

佐藤は代金を払い、足早に公園を離れた。

しかし、歩いても歩いても、家が遠い。

上野から自宅までは一時間ほどのはずだ。

それなのに、気づけば夕暮れは夜に変わり、六時間が過ぎていた。

「……おかしい」

玄関に倒れ込むようにして帰宅した佐藤は、すぐに眼鏡の録画データを確認した。

似顔絵を描いてもらった時間帯の映像を再生する。

しかし――そこには茶倉の姿がなかった。

佐藤が椅子に座り、紙を受け取る映像はある。

だが、紙を渡す“相手”が映っていない。

空間から紙が差し出されているように見える。

「……思った通りね」

佐藤は低く呟いた。

「邪霊? 悪魔? それとも……」

翌朝。

佐藤は目を開けた瞬間、体が鉛のように重いことに気づいた。

時計を見ると、すでに昼を過ぎている。

「……まずいわね」

鏡を見ると、頬がこけ、目の下には深い影が落ちていた。

まゆみと同じ症状だ。

しかし、佐藤にはやるべきことがある。

あの絵描きの正体を突き止めなければならない。

佐藤は机の引き出しから、一冊の古い本を取り出した。

以前、神学研究家から譲り受けた悪魔事典だ。

ページをめくりながら、佐藤はネットでも情報を探し始めた。

“魂を描き取り、劣化させ、最後に食らう存在”

“姿を隠し、人間のふりをする悪魔”

“絵を媒介にして人を蝕むもの”

いくつかの記述が、茶倉の姿と重なっていく。

「……やっぱり、あれは人間じゃない」

佐藤は眼鏡をかけ直し、深く息を吸った。

「正体を暴く。必ず」

その声は、弱りゆく体とは裏腹に、強い決意に満ちていた。


第四章:対決

最終列車のアナウンスが、上野駅のホームからかすかに聞こえていた。

夜の上野公園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、街灯の光だけが地面に薄い影を落としている。

茶倉和人は、いつもの場所で店じまいをしていた。

スケッチブックを閉じ、鉛筆を布で拭い、淡々と荷物をまとめている。

その姿は、まるで儀式を終えた僧侶のように静かだった。

「もう……終わりです」

茶倉が呟いたとき、背後から声がした。

「そっちは用がなくても、こっちにはあるのよ」

佐藤さわりが、夜の闇を切り裂くように立っていた。

黒縁眼鏡の奥の瞳は鋭く、しかしどこか疲れが滲んでいる。

彼女の頬はやつれ、歩くたびに体がわずかに揺れていた。

「あなたの正体は……邪霊?」

茶倉はゆっくりと振り返った。

その目は、深い井戸の底のように暗く、底知れない。

「ふふふ……そんな下等なものじゃないよ」

次の瞬間、茶倉の姿が揺らぎ、黒い影が彼の体を包み込んだ。

影はマントのように広がり、風もないのにひらりと舞う。

「俺の正体は――悪魔、ヘルマン・ヴェルスだ」

その声は、茶倉の声ではなかった。

低く、湿り気を帯び、地の底から響くような声だった。

佐藤は一歩も引かなかった。

「やっぱりね。あなた、人の魂を描いて食べているんでしょう?」

「そうだ。お前の魂も、もう半分は俺のものだ。あとは……食らうだけ」

ヴェルスは両手を広げ、佐藤に迫った。

その動きは人間のものではなく、影が滑るように近づいてくる。

「逃げても無駄だ。魂をよこせ」

佐藤は後ずさりしながら、鞄の中を探った。

そして、ひとつの物を取り出す。

――ポラロイドカメラ。

「何をするつもりだ?」

「あなたは人の絵は描くけど……自分自身を描いたことはないでしょう?」

佐藤はシャッターを切った。

閃光が闇を裂き、ヴェルスの姿を照らした。

「やめろォォォ!」

悪魔の叫び声が公園に響き渡る。

影が激しく揺れ、形を保てなくなっていく。

「あなたにとって“写される”ことは最大の攻撃なのよ。

絵はあなたの武器。でも、写真はあなたの“真実”を暴く」

佐藤は撮ったばかりの写真とカメラを掴み、近くの大川へと走った。

ヴェルスは必死に追いかけるが、影はすでに崩れ始めている。

「やめろ……やめろォォォ!」

佐藤は力いっぱい、カメラごと川へ投げ込んだ。

水面が大きく跳ね、白い波紋が広がる。

その瞬間、ヴェルスの姿は霧のように消えた。

静寂が戻った川面に、ひとつの影が現れた。

――鯰。

大きな鯰が、ゆっくりと水中を泳いでいた。

「やっぱり……正体は鯰だったのね」

佐藤は息を整えながら呟いた。

「悪魔事典にあったわ。人の魂を描き、ぼろぼろになったところで食らう鯰の悪魔。

“ヴェルス”はドイツ語で鯰。……素直すぎるわね」

鯰は水中でひとつ泡を吐き、暗い川の底へと消えていった。

「残りの余生は、鯰として静かに過ごしなさい」

佐藤は夜風に吹かれながら、ゆっくりと公園を後にした。


エピローグ:白紙の部屋

佐藤さわりの部屋は、夜の静けさに包まれていた。

机の上には、事件の記録をまとめたノートと、悪魔事典が開かれたまま置かれている。

ふと壁に目を向けると、そこに飾ってあったはずの自分の似顔絵が――白紙になっていた。

紙は確かにそこにある。

しかし、描かれていたはずの線も影も、すべて消えている。

まるで最初から何も描かれていなかったかのように。

「……魔力が消えたのね」

佐藤は小さく呟いた。

あの悪魔が川の底へ沈んだ瞬間、絵に宿っていた“力”も同時に失われたのだろう。

白紙の紙は、ただの紙に戻っていた。

*

数日後。

佐藤は小島まゆみのアパートを訪れた。

部屋の中には、以前のような明るさが戻っていた。

観葉植物は元気に葉を広げ、カーテン越しの光が床に柔らかく落ちている。

「佐藤さん……本当にありがとうございました」

まゆみはまだ少し痩せていたが、顔色は良く、目に力が戻っていた。

竹内与志夫もそばに立ち、深々と頭を下げた。

「助けていただいて……本当に……」

「いいのよ。あなたたちが無事なら、それで」

佐藤は微笑んだ。

まゆみの頬には、ほんのりと血色が戻っている。

あの異様な老化は完全に止まり、時間が再び正しい方向へ流れ始めていた。

壁に飾られていた似顔絵は、すでに処分されたという。

「見るだけで気分が悪くて……」

「正しい判断よ」

佐藤は頷いた。

*

帰り道、佐藤は馴染みの珈琲店に立ち寄った。

店内には静かなジャズが流れ、焙煎した豆の香りが漂っている。

カウンター席に腰を下ろし、メニューを開く。

「今日は……キリマンジェロにしようかしら」

事件の後始末として、竹内カップルから霊障解決費を受け取ることもできた。

しかし、佐藤は断った。

あの二人から金を取る気には、どうしてもなれなかった。

カップが置かれ、湯気が立ちのぼる。

佐藤はゆっくりと一口飲んだ。

深い苦味と、かすかな酸味。

生きている実感が、喉の奥に広がっていく。

「……まあ、いいわ。これで一件落着」

窓の外では、夕暮れが街を染め始めていた。

しかし、その光の向こうには、また別の影が潜んでいるかもしれない。

佐藤さわりは、静かに眼鏡の位置を直した。

――霊障は、いつだって日常のすぐ隣にある。

(完)

佐藤さわりシリーズは、書くたびに「これで最後かもしれない」と思いながら続けてきました。

霊障という題材は、扱い方を誤るとマンネリにもなり、過度に説明的にもなってしまうからです。

それでも、日常の裂け目からふと覗く“異物”の気配を描くことは、やはり楽しいものです。

今回の悪魔ヘルマン・ヴェルスは、派手さよりも“静かな侵食”を重視しました。

似顔絵という媒体を通して魂を奪うという設定は、現実の上野公園の空気感と相性がよく、書いていて自然に筆が進みました。

シリーズは十作ほどになりましたが、まだ描けるものがあるのか、そろそろ限界なのか、自分でもわかりません。

ただ、書きたいと思える“影”がまた見つかれば、そのときは静かに筆を取るつもりです。

ここまで読んでくださった皆さまに、心から感謝いたします。

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