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佐藤さわりの霊障事件簿 悪魔ヴェルス

佐藤さわりの霊障事件簿も、気づけば十作を超えました。

日常のすぐ隣にある“異物”を描くというシリーズの軸は変わりませんが、今回はその中でも少し異質な存在――悪魔ヘルマン・ヴェルスを扱っています。

似顔絵という、ごくありふれた行為。

上野公園という、誰もが知る場所。

その中に、ひっそりと紛れ込んだ“食うもの”の気配。

悪魔をどう退治するかは、最後まで悩みました。

派手な戦いにすることもできましたが、佐藤さわりという人物の性質を考えると、静かで、しかし確実に“核心を突く”決着がふさわしいと感じました。

人の姿を借りて魂を描き取る悪魔。

その正体が、意外にも身近な生き物に結びついていたという落差も、今回の物語のひとつの味わいになれば幸いです。

第一章:異物の来訪と絵描き

新政権が誕生してから、日本の街の空気はどこか乾いていた。前政権のような中国寄りの政策は見直され、中国人観光客の姿は目に見えて減った。浅草の仲見世通りも、以前の喧騒が嘘のように静まり返っている。

そんな中、ひとりの外国人が成田空港に降り立った。

ヘルマン・ヴェルス。ドイツ国籍、三十代前半。入国審査を通過した彼は、黒いコートの襟を立て、無言で到着ロビーへと歩き出した。

監視カメラには、彼が人混みの中へ紛れ込む姿が映っていた。

しかし、その先の映像には彼の姿はなかった。

まるで、空気に溶けるように消えていた。

以後、誰も彼を見ていない。

茶倉和人ちゃくら かずとは、上野公園の片隅に腰を下ろしていた。

茨城から上京し、東京の芸術大学に通う売れない絵描き。授業のない日は、こうして公園で似顔絵を描き、わずかな金を稼いでいる。

ただし、彼にはひとつだけ奇妙なこだわりがあった。

――男は描かない。

今日も、酔っ払いがふらふらと近づいてきた。

「兄ちゃん、うまく描いてねえ」

「僕は男性は描きません」

「かたいこと言うなよ」

男は一万円札をひらつかせ、茶倉の頭上で揺らした。

茶倉は無表情のまま、短く答えた。

「描きません」

酔っ払いの顔がみるみる赤くなる。

「下手に出てりゃいい気になりやがって!」

「……では描いて差し上げましょう。ただし――後悔しますよ」

茶倉は紙を取り出し、鉛筆を走らせた。

酔った男は目を大きく見開き、にやにやと笑っている。

「おお、うまいじゃねえか」

男はふらつきながら公園の出口へ向かった。

その途中で、突然しゃがみ込み、そのまま動かなくなった。

道行く人は誰も気に留めない。酔いつぶれた男など珍しくもないからだ。

だが、茶倉の前には、ひとつだけ異様な光景があった。

男の鼻から、小さな白い玉のようなものがふわりと浮かび上がり、ゆっくりと茶倉のもとへ漂ってきたのだ。

茶倉は口を開け、それを吸い込んだ。

苦虫を噛み潰したような顔をして、ぺっと吐き出す。

「不味い。……親父は不味いね。まあ、今さらだけど」

茶倉は淡々と道具を片付け、店じまいをした。

翌朝。

休日の上野公園は、まだ人影もまばらだった。西郷隆盛像へ続く階段の下で、茶倉はいつものように座っていた。

そこへ、若いカップルがやってきた。

竹内与志夫と小島まゆみ。手をつなぎ、楽しげに笑い合っている。

「僕たち二人の似顔絵、描いてほしいんです」

「僕は男は描きません」

「そんなこと言わないでよ」

茶倉は黙ったまま視線をそらした。

竹内は困ったように笑い、折れた。

「じゃあ……彼女だけでいいよ」

「彼女さんの似顔絵ですね。かしこまりました」

その声は、客に向けるものとは思えないほど低く、冷たかった。

茶倉は紙に向かい、迷いなく線を引いていく。

まゆみは最初こそ楽しげにしていたが、ふと首元に違和感を覚えた。

「えっ……?」

竹内が驚いた声を上げる。

「まゆみ、首……血が出てる!」

「え?なにが?」

まゆみが触れると、指先に赤いものがついた。

小さな傷から、じわじわと血が流れている。

茶倉はすでに描き終えていた。

その似顔絵は、二人が息を呑むほど美しく、そしてどこか不気味だった。

二人は礼を言い、絵を抱えて帰っていった。

しかし、帰り道でまゆみは急に足を止めた。

「なんか……変な感じがする」

竹内が顔を覗き込むと、まゆみの表情が、ほんのわずかだが老けて見えた。

「え……?」

竹内は言葉を失った。

まだ数時間しか経っていないのに、まゆみの顔は確かに“劣化”していた。

その日のデートは中止になった。


第二章:蝕まれる影

小島まゆみのアパートは、白い壁紙と観葉植物が並ぶ、若い女性らしい部屋だった。

その一角、よく見える場所に、昨日描いてもらった似顔絵が飾られている。

紙の中のまゆみは、どこか艶めいて、現実よりも美しく見えた。

しかし、朝。

洗面所の鏡を覗き込んだまゆみは、思わず二度見した。

「……え?」

鏡の中の自分は、昨日よりもわずかに老けていた。

目の下の影が濃く、頬の張りが失われ、どこか疲れ切ったような顔をしている。

体も重い。

何かをしようという気力が湧かない。

まゆみはインフルエンサーとしてSNS発信を欠かさないが、その日の投稿にはすぐにコメントがついた。

「なんか今日、老けてない?」

「大丈夫?疲れてる?」

「顔色悪いよ」

まゆみはスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。

一週間が過ぎた。

朝起きるのがやっとで、会社も休んでいる。

部屋の中は薄暗く、カーテンを開ける気力すらない。

そこへ、竹内与志夫が訪ねてきた。

「まゆみ……どうしちゃったんだよ」

ドアを開けた瞬間、竹内は息を呑んだ。

ベッドに横たわるまゆみは、まるで別人のようにやつれていた。

肌は乾き、髪は艶を失い、目は虚ろに沈んでいる。

SNSでは、まゆみの変貌を心配する声が増えていた。

「病院行って!」

「なにかおかしいよ」

「霊障じゃない?」

竹内はまゆみを支えながら病院へ連れて行った。

血液検査、レントゲン、心電図。

できる検査はすべて行われた。

しかし、医者の言葉はあまりに軽かった。

「ストレスではないでしょうか」

「先生、それはないですよ。ストレスでこんな……」

「鬱になると、何もできなくなります。朝起きても何もする気になれない。躁鬱病というものがありますが、躁のときは危険ですが、鬱のときは自殺などはしませんので、安心といえば安心です」

竹内は唖然とした。

まゆみはぼんやりと宙を見つめ、生気がない。

医者はカルテを閉じ、言いにくそうに口を開いた。

「……精神科か、あるいは霊障の専門家に相談するのも一つの手です」

「霊障?」

「佐藤さわりさんという方が、いくつもの霊障事件を解決していると聞いています」

竹内はすぐにスマホを取り出し、佐藤さわりを検索した。

SNSのおかげで、連絡はすぐについた。

その日の夕方。

佐藤さわりがまゆみの部屋にやってきた。

身長160センチほどの小柄な女性。

黒髪はチューリップのように丸く揃えられ、黒縁眼鏡の中央には小型カメラが仕込まれている。

肩から下げた鞄には、五七の桐のキーホルダーが揺れていた。

佐藤は部屋に入るなり、まゆみの顔を見て表情を引き締めた。

「……このままでは死んでしまうわ」

竹内は震える声で事情を説明した。

佐藤は黙って聞き、部屋の中を見回す。

そして、壁に飾られた似顔絵に目を留めた。

「これは……単なる似顔絵ではないわね」

紙の中のまゆみは、現実の彼女よりも若く、美しく、そしてどこか妖艶だった。

その美しさは、まるで“何か”を吸い取って輝いているように見えた。

「この似顔絵、どこで描いてもらいましたか?」

佐藤の声は低く、確信に満ちていた。


第三章:佐藤さわり、影に触れる

佐藤さわりは、竹内からの話を聞き終えると、すぐに上野へ向かった。

まゆみの顔に刻まれた異常な老化。

飾られた似顔絵の、あの不自然な艶。

そして、絵を描いたという男――茶倉和人。

すべてが一本の線でつながっていると、佐藤は直感していた。

上野公園は夕方の光に沈み、観光客の姿もまばらだった。

階段の下、木の影に紛れるようにして、茶倉は座っていた。

黒い服に、沈んだ目。

まるで人間の形をした“空洞”のようだった。

「似顔絵をお願いしたいんですが」

佐藤が声をかけると、茶倉はゆっくりと顔を上げた。

その目は笑っていないのに、どこか愉悦を含んでいる。

「……どうぞ」

愛想はない。

しかし、手は迷いなく紙を取り出し、鉛筆を走らせ始めた。

佐藤は、描かれる間じっと茶倉の手元を見つめていた。

線は滑らかで、迷いがなく、異様なほど速い。

まるで、すでに完成形が頭の中にあるかのようだった。

「できました」

紙を受け取った瞬間、佐藤は息を呑んだ。

そこに描かれていたのは、現実の自分よりもわずかに若く、そしてどこか“魂の輪郭”まで写し取ったような自分だった。

「これは……すごいわ」

そのときだった。

左手の小指に、ぬるりとした感覚が走った。

「……あれ?」

見ると、小指の先から血が一滴、地面に落ちていた。

どこかにぶつけた覚えはない。

茶倉の目が細くなり、口元がわずかに歪んだ。

「気をつけて帰るといいですよ」

その声は、忠告ではなく“宣告”のように聞こえた。

佐藤は代金を払い、足早に公園を離れた。

しかし、歩いても歩いても、家が遠い。

上野から自宅までは一時間ほどのはずだ。

それなのに、気づけば夕暮れは夜に変わり、六時間が過ぎていた。

「……おかしい」

玄関に倒れ込むようにして帰宅した佐藤は、すぐに眼鏡の録画データを確認した。

似顔絵を描いてもらった時間帯の映像を再生する。

しかし――そこには茶倉の姿がなかった。

佐藤が椅子に座り、紙を受け取る映像はある。

だが、紙を渡す“相手”が映っていない。

空間から紙が差し出されているように見える。

「……思った通りね」

佐藤は低く呟いた。

「邪霊? 悪魔? それとも……」

翌朝。

佐藤は目を開けた瞬間、体が鉛のように重いことに気づいた。

時計を見ると、すでに昼を過ぎている。

「……まずいわね」

鏡を見ると、頬がこけ、目の下には深い影が落ちていた。

まゆみと同じ症状だ。

しかし、佐藤にはやるべきことがある。

あの絵描きの正体を突き止めなければならない。

佐藤は机の引き出しから、一冊の古い本を取り出した。

以前、神学研究家から譲り受けた悪魔事典だ。

ページをめくりながら、佐藤はネットでも情報を探し始めた。

“魂を描き取り、劣化させ、最後に食らう存在”

“姿を隠し、人間のふりをする悪魔”

“絵を媒介にして人を蝕むもの”

いくつかの記述が、茶倉の姿と重なっていく。

「……やっぱり、あれは人間じゃない」

佐藤は眼鏡をかけ直し、深く息を吸った。

「正体を暴く。必ず」

その声は、弱りゆく体とは裏腹に、強い決意に満ちていた。


第四章:対決

最終列車のアナウンスが、上野駅のホームからかすかに聞こえていた。

夜の上野公園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、街灯の光だけが地面に薄い影を落としている。

茶倉和人は、いつもの場所で店じまいをしていた。

スケッチブックを閉じ、鉛筆を布で拭い、淡々と荷物をまとめている。

その姿は、まるで儀式を終えた僧侶のように静かだった。

「もう……終わりです」

茶倉が呟いたとき、背後から声がした。

「そっちは用がなくても、こっちにはあるのよ」

佐藤さわりが、夜の闇を切り裂くように立っていた。

黒縁眼鏡の奥の瞳は鋭く、しかしどこか疲れが滲んでいる。

彼女の頬はやつれ、歩くたびに体がわずかに揺れていた。

「あなたの正体は……邪霊?」

茶倉はゆっくりと振り返った。

その目は、深い井戸の底のように暗く、底知れない。

「ふふふ……そんな下等なものじゃないよ」

次の瞬間、茶倉の姿が揺らぎ、黒い影が彼の体を包み込んだ。

影はマントのように広がり、風もないのにひらりと舞う。

「俺の正体は――悪魔、ヘルマン・ヴェルスだ」

その声は、茶倉の声ではなかった。

低く、湿り気を帯び、地の底から響くような声だった。

佐藤は一歩も引かなかった。

「やっぱりね。あなた、人の魂を描いて食べているんでしょう?」

「そうだ。お前の魂も、もう半分は俺のものだ。あとは……食らうだけ」

ヴェルスは両手を広げ、佐藤に迫った。

その動きは人間のものではなく、影が滑るように近づいてくる。

「逃げても無駄だ。魂をよこせ」

佐藤は後ずさりしながら、鞄の中を探った。

そして、ひとつの物を取り出す。

――ポラロイドカメラ。

「何をするつもりだ?」

「あなたは人の絵は描くけど……自分自身を描いたことはないでしょう?」

佐藤はシャッターを切った。

閃光が闇を裂き、ヴェルスの姿を照らした。

「やめろォォォ!」

悪魔の叫び声が公園に響き渡る。

影が激しく揺れ、形を保てなくなっていく。

「あなたにとって“写される”ことは最大の攻撃なのよ。

絵はあなたの武器。でも、写真はあなたの“真実”を暴く」

佐藤は撮ったばかりの写真とカメラを掴み、近くの大川へと走った。

ヴェルスは必死に追いかけるが、影はすでに崩れ始めている。

「やめろ……やめろォォォ!」

佐藤は力いっぱい、カメラごと川へ投げ込んだ。

水面が大きく跳ね、白い波紋が広がる。

その瞬間、ヴェルスの姿は霧のように消えた。

静寂が戻った川面に、ひとつの影が現れた。

――鯰。

大きな鯰が、ゆっくりと水中を泳いでいた。

「やっぱり……正体は鯰だったのね」

佐藤は息を整えながら呟いた。

「悪魔事典にあったわ。人の魂を描き、ぼろぼろになったところで食らう鯰の悪魔。

“ヴェルス”はドイツ語で鯰。……素直すぎるわね」

鯰は水中でひとつ泡を吐き、暗い川の底へと消えていった。

「残りの余生は、鯰として静かに過ごしなさい」

佐藤は夜風に吹かれながら、ゆっくりと公園を後にした。


エピローグ:白紙の部屋

佐藤さわりの部屋は、夜の静けさに包まれていた。

机の上には、事件の記録をまとめたノートと、悪魔事典が開かれたまま置かれている。

ふと壁に目を向けると、そこに飾ってあったはずの自分の似顔絵が――白紙になっていた。

紙は確かにそこにある。

しかし、描かれていたはずの線も影も、すべて消えている。

まるで最初から何も描かれていなかったかのように。

「……魔力が消えたのね」

佐藤は小さく呟いた。

あの悪魔が川の底へ沈んだ瞬間、絵に宿っていた“力”も同時に失われたのだろう。

白紙の紙は、ただの紙に戻っていた。

数日後。

佐藤は小島まゆみのアパートを訪れた。

部屋の中には、以前のような明るさが戻っていた。

観葉植物は元気に葉を広げ、カーテン越しの光が床に柔らかく落ちている。

「佐藤さん……本当にありがとうございました」

まゆみはまだ少し痩せていたが、顔色は良く、目に力が戻っていた。

竹内与志夫もそばに立ち、深々と頭を下げた。

「助けていただいて……本当に……」

「いいのよ。あなたたちが無事なら、それで」

佐藤は微笑んだ。

まゆみの頬には、ほんのりと血色が戻っている。

あの異様な老化は完全に止まり、時間が再び正しい方向へ流れ始めていた。

壁に飾られていた似顔絵は、すでに処分されたという。

「見るだけで気分が悪くて……」

「正しい判断よ」

佐藤は頷いた。

帰り道、佐藤は馴染みの珈琲店に立ち寄った。

店内には静かなジャズが流れ、焙煎した豆の香りが漂っている。

カウンター席に腰を下ろし、メニューを開く。

「今日は……キリマンジェロにしようかしら」

事件の後始末として、竹内カップルから霊障解決費を受け取ることもできた。

しかし、佐藤は断った。

あの二人から金を取る気には、どうしてもなれなかった。

カップが置かれ、湯気が立ちのぼる。

佐藤はゆっくりと一口飲んだ。

深い苦味と、かすかな酸味。

生きている実感が、喉の奥に広がっていく。

「……まあ、いいわ。これで一件落着」

窓の外では、夕暮れが街を染め始めていた。

しかし、その光の向こうには、また別の影が潜んでいるかもしれない。

佐藤さわりは、静かに眼鏡の位置を直した。

――霊障は、いつだって日常のすぐ隣にある。

(完)

佐藤さわりシリーズは、書くたびに「これで最後かもしれない」と思いながら続けてきました。

霊障という題材は、扱い方を誤るとマンネリにもなり、過度に説明的にもなってしまうからです。

それでも、日常の裂け目からふと覗く“異物”の気配を描くことは、やはり楽しいものです。

今回の悪魔ヘルマン・ヴェルスは、派手さよりも“静かな侵食”を重視しました。

似顔絵という媒体を通して魂を奪うという設定は、現実の上野公園の空気感と相性がよく、書いていて自然に筆が進みました。

シリーズは十作ほどになりましたが、まだ描けるものがあるのか、そろそろ限界なのか、自分でもわかりません。

ただ、書きたいと思える“影”がまた見つかれば、そのときは静かに筆を取るつもりです。

ここまで読んでくださった皆さまに、心から感謝いたします。

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